見出し画像

エクストラクト

 砂塵の向こうに霞む街が見える。
 男は立ち止まっているとずぶずぶとブーツが沈んでいく流砂の流れに抗うようにして、一歩一歩街の方へと向かって行く。
(また蜃気楼じゃないだろうな)
 空を見上げると、太陽すらも砂塵に翳っている。そこに雲がかかっているものだから、正午近い時間だというのに、辺りは夕刻のように薄暗かった。
 以前こんな天候の中街を見つけたとき、遠くから見えた街は砂塵の黒と茶色の色彩の中にあっても、彩り豊かな街並みに見えたのだが、近づいてみて男は愕然とした。街は砂に埋もれ、生者のいない死んだ街だったのだ。彩り豊かに見せていたのは、街に宿った残留思念と言おうか、蜃気楼のようなものだ、と男は考えていた。
 幾つもの街が砂に沈んだ。街に砂が飛来しても、それを掃きだす人間がいなくなったからだ。
 男がリュックを背負い直すと、カラビナに引っかけたステンレスの水筒が涼しげな音をたてる。水の残りは少ない。目指す街が蜃気楼だったら事だぞ、と男は額に滲む汗をよれよれになったコートの袖で拭った。
 街まで辿り着くと、そこはまだ砂に埋もれきってはおらず、人の気配がした。男はそれが「生者」ならばよいが、と膝に手を突いて一息入れ、顔を上げて街の門をくぐる。
 ほとんどの家や店にシャッターが下りていたが、民家の玄関先に一人の老人が立っていて、道を箒で掃いていた。掃くそばから砂が舞い散ってくるので、掃いている意味はほとんどなかったが、それでも老人はただ黙々と箒を左右に動かし続け、道行く男を目だけでじっと追いかけた。
(死者だな)
 男は老人に一瞥をくれると顔を背け、街の中ほどでネオンが点いていることがうっすらと砂塵の向こうに見える店を目指した。外ほどではないが、足は砂に埋まる。踝くらいまではきている。とすると、『死海波』がきてから随分経っているぞ、と男は考える。
 店の前に辿り着くと、微かに音楽が鳴っているのが聞こえた。ジャズだな、と男は思った。旧時代の音楽だ。懐かしい、と男は慣れ親しんだジャズのメロディーを口ずさみ、扉を開けた。
 店内には暖色のライトがぼんやりと点いているが、店全体を照らすには足らず、店の端々は濃い影を落として闇に眠っていた。その数少ないライトの下にいたマスターがライトを反射して輝く皿を真っ白な布で磨きながら、目を丸くして男を見つめている。お互いの第一声が重なった。「あんたは生者か?」
「問いを発せるということは」とマスターは安堵したように磨いていた皿をテーブルに置いた。
「生者だな」と男も砂に塗れた帽子を脱いで布張りのスツールの上に置くと、その隣に腰かけた。
「ウイスキーはあるかい」
 男は店の中を見回した。部屋の角や端には闇が街に溜まる砂のように積もっているが、壁にはルノワールだとかドラクロワだとか、ブリューゲルだとかの絵がかけられていて、絵画の主張を無視したその陳列は無作法であると同時に、単純に美を愛しているようで男には好ましかった。
「あんた、この辺りの人じゃないね」とマスターはウイスキーをグラスに注ぎ、男の前に置く。「何か食べるかい?」
「ああ、旅をしているんだ。……何か適当にもらおうか」
 マスターは冷蔵庫からピーマンや玉ねぎを出して、手早くカットする。
「生の野菜か。貴重品だな。いいのか」
 男がグラスを弄びながら訊くと、マスターは苦笑して、いいのさ、と応えると左腕のシャツをめくって腕を男の方に差し出した。腕には緑色の痣のような班と紫の点が星のように無数にその班の上に散らばっていた。
「『死海波』にやられたのか。だが、今だ正気を保っているということは、あんたAかBランクか?」
 男は煽るようにウイスキーを飲み干し、「もう一杯いただこうか」とグラスを差し出す。マスターはそれを受け取り、グラスにウイスキーを満たしながら、「三年前だよ。この辺りを襲ったのは」と左腕の班を忌々しそうに眺めながら呟くように言って、シャツを下ろした。
「私はAランクだったから、すぐに『死者』にはならずに済んだ。だが、一週間前だよ、腕の痣に気づいたのは」
「あと一か月、ってところか」
 そうだね、とマスターは頷き、カットした野菜をフライパンに入れて炒める。
「『死海波』ってのはなんなんだろうねえ」
 マスターののんびりとした口調がおかしくて、男は思わず失笑してしまう。
 死海波。どこかから押し寄せる紫色の霧の波。その波に巻き込まれた者は、抵抗力が高い者以外を死に至らしめ、そしてそれだけでなく、死んだ者を「死者」として再びこの世に蘇らせる。その霧の波は一度だけでなく、寄せては返す波のように一定の周期で襲ってくることから、「死海波」と呼ばれるようになった。
 死海波が起こってから、この世の人類は「生者」と「死者」の二種類に分かれることになった。「死者」は生前、死海波の直前にとっていた行動を繰り返すとされているが、中には自我を取り戻した者や、完全に自我を喪失して獣同然となり、「生者」を襲うようになった者もいると、男は知っていた。
「ひょっとしたら、これが終末の世界とやらかもしれないな」
 マスターはそうだね、と相槌を打ちながら、茹でたパスタを炒めた野菜の中に投入する。ソースの赤みで、麺がみるみる染まっていく。
「あんた、旅をしてるって、ランクは幾つなんだい」
「特Aだ」と答えると、マスターは「特A!」と素っ頓狂な声を上げた。
「特Aの人なんか初めて見たよ。みんな皇都に住んでいるとばかり思っていたからね」
 死海波への抵抗力は五段階に分けられていた。A・Bランクは抵抗力上位クラスで、一度や二度の死海波で死者になることはなく、死海波の影響下にある地域でも長時間生活することができた。Cランクになると、死海波の影響下にある地域で生活する分には支障がないが、死海波を直接浴びると死者になってしまうため、死海波から逃げ続けなければならない生活を余儀なくされる。最低のDランクは死海波の影響下にある地域に立ち寄ると死者になってしまうため、清浄な地域でしか生きられないが、この国では数えるほどしか清浄な地域はなく、Dランクの人間はほぼ死滅したと考えられていた。そしてAの上の特Aという極めて高い、完全とも言える抵抗力を備えた人間は、死海波の影響を一切受けなかった。そして皇都に住むことが許されていたのは、この特Aの人間に限られていた。
 皇都が特Aの人間だけに居住を制限したのは、特A同士の親からは、特Aの子どもしか生まれないという常識が支配していたからだった。皇都で特Aの人類を増やし、いつの日か死海波を克服することが、人類に残された数少ない希望だった。
 マスターに差し出されたナポリタンを啜り、野菜のしゃきしゃきとした食感と甘みを噛みしめて、男は感動さえ覚えた。こんな美味い飯を食べたのはいつ以来だろうか、と思うと感慨深いものがあった。
「俺ははぐれものでね。ある目的があって皇都を出て、旅をしている」
 男はナポリタンを咀嚼しながら懐のポケットにしまっておいた一枚の写真を出してマスターの目の前に差し出す。「この女を探している」
 マスターは眼鏡を外して顔を近づけ、よく写真を眺めると、「ああ!」と声を上げた。その後でしまったという顔つきになり、ばつが悪そうに、「なんでその女を探してるんだい」と視線を逸らしながら訊ねた。
「俺の子どもを殺した。まだ二歳だった」
 男は写真を胸ポケットに収め、歯噛みしながら絞り出すように言った。
 雨の日だった。ひどい雷雨で、天気予報とは真逆の天気だった。皇都の辺りは砂塵の影響がなかったが、雨がよく降った。天気予報が外れることなんか想定して然るべきなのに、その日に限って男は傘を忘れた。鞄を傘の代わりにして雷の降り注ぐ街路を駆け抜けると、家の玄関前に立ったときにはスーツはおろか下着までぐっしょりだった。
 玄関を開けると、いつもは灯っているはずの電灯がついておらず、息子や妻の出迎えもない。不審に思った男は腰に携帯していた、陛下から下賜された光線銃を手にして、足音を殺し、一つ一つ順番に部屋を検めた。だが、二人の姿はなかった。そして、最後に残った子ども部屋を開けたとき、男は最も見たくないものを見てしまった。
 額を撃ち抜かれて目を瞑った、血の海の中の息子の姿を。
 雷が近くの避雷針に落ちて、部屋の中を真っ白に染めた。赤と白のそのコントラストの中で、男は銃を手に立ち尽くす女の姿を見た。写真の女だ。男が声を上げると、女は振り返って微笑を浮かべ、窓に突進してガラスを破り、外に逃れた。
 男は女を追うか、死んだ息子のそばにいるか迷い、息子の亡骸を抱きかかえて声のかぎりに泣いた。そして涙が枯れ果てたとき、皇都を出て女を追うことにした。女はきっと皇都には留まらない。そう男の勘が告げていた。
「そんな、まさか。シエルさんが」
 すうっとマスターの顔から血の気が引いて、男はくく、と笑うと、「そうか、ここではシエルと名乗っているのか」と静かに言って、口を噤み、黙々とナポリタンを口に運んだ。マスターはそわそわして、視線をあちこちに巡らせて落ち着きをすっかり失ってしまっていた。
「どこに行けば会える?」
 男はナポリタンを平らげると、紙ナプキンで口を拭きながら訊ねた。マスターはしばらく逡巡していたが、男の鋭い眼光に負け、「北の廃村の方から来る。知っているのはそれだけだ」と肩を落としながら白状した。
 飯と酒の礼だ、と男は背負ってきたリュックサックの中から二本のワインボトルを取り出すと、カウンターの上に置いた。死海波に汚染された世界で、酒は金よりも貴重品だった。
「それから、旧型のエネルギーパックの備蓄とかはあるか」
 男は腰のホルスターから光線銃を抜くと、掲げて見せた。
「ああ、多分。武器庫の中にあると思うが。あんた、一体何者なんだい?」
 光線銃自体は珍しいものではない。だが、男が持っていた光線銃に皇室を示す紋様が刻まれているのをマスターは見逃さなかった。それを持っているということは、皇室の一員であるか、銃を下賜された軍人かのいづれかだ。下賜されたとすれば、その軍人は相当に階級の高い軍人でなおかつ功績があった者ということになる。
「俺は昔陛下の護衛隊長を務めていた」
「陛下の! それじゃああんた、超がつくエリートじゃないか」
 昔の話だ、と男は笑う。
「じゃあ、飯と酒、うまかったよ。またいつか立ち寄る」
 マスターは苦笑し、「その頃には死者だ」と自嘲気味に口角をひくつかせて言った。
「あんたなら、死者になっても美味い飯を作ってくれそうだがな」
 男は手を挙げて、踵を返す。そこへマスターが追いかけるように「あんた、名は?」と訊ねた。彼は振り返ることもせず、ただ一言「シンクだ」と言い捨てると店を出て行った。

 シンクは街の武器庫に立ち寄り、入り口の守衛に目を止めて、顔全体に班が及んでいることから、死者だなと判断し、その横を素通りしようとした。
「IDの提示を」、行く手を遮り、感情のない声が言う。
 なるほど、とシンクは合点し、先ほどの店で拝借しポケットに突っ込んでいた、店の名刺を提示する。
 守衛はじいっとその名刺を見つめた後で、ぎょろりとシンクの顔を見つめ、体を起こすと威厳たっぷりに胸を張って「通ってよし」と宣言した。
 ただ生前の行動を繰り返す死者に知能はない。IDカードに見える何かさえ提示してやればいいだけの話だった。
 シンクは武器庫の中に入ると、エネルギーパックを漁り、型式の会うものを二つほど見つけ、それ以外に実弾を三箱とアーミーナイフをリュックサックにしまった。これぐらいでいいかと考えていると、視界の隅、棚の最奥に金属の細長い箱が隠されていることに気づき、その箱を引っ張り出す。中に入っていたのは、旧時代の兵器にあやかって名付けられた、グロアールという名称の筒状の武器が入っていた。
 このグロアールは、筒の先からエネルギーを放出し、攻撃などの接近に合わせてシールドとして展開したり、筒を柄にして、放出したエネルギーを剣状に留め、近接兵器としても使用できる汎用兵器だった。AIが搭載されており、音声で展開できるのが利点だ。だが、この兵器には欠点があり、それは使用するエネルギーが膨大だということだった。シールドとして使えても二、三度。ソードとして使ってもせいぜい一分と、実用的ではないとして骨董品扱いされている武器だが、何かの役に立つかもしれないとして、シンクは新型のエネルギーパックと一緒にグロアールも持っていくことにした。
(北の廃村だったな)
 シンクは武器庫を後にすると、一路北を目指した。
 北の方が砂煙は薄かった。山岳地帯が近いのか、砂塵の向こうにうっすらと山並みが見える。村を出て、山の奥にでも入られていると厄介だなと思いながらも、シンクは砂をかき分けて進んだ。
 海の波が砂を運んで押し寄せては、引き際にさらっていくように、死海波のときには大量の砂が押し寄せて、引いていくのだった。そして残った砂が風に巻き上げられ、方々に降り注ぐ。三年前に死海波に襲われたこの地域は、だいぶ砂が散らばっただろうが、死海波の直後の地域などはほとんど街が砂に圧し潰されてしまい、たとえ死海波に高い耐性をもっていたとしても助からないような地域も、シンクは見てきた。
 この旅の中で自分が生きているのは幸運と、そして復讐という正義を成そうという妄執ともいえる執念のせいだ、とシンクは思う。ならず者に襲われたのも一度や二度じゃないし、獣と化した死者の群れに出くわしたこともある。
 だが、写真の女はそうしたこれまでの困難以上に手強い相手だと、シンクは考えていた。女も元は陛下の護衛を務める凄腕であり、何より厄介なのが、お互いの手の内を知り尽くしているということだ。
 男は村の輪郭が朧気に見えてきたところで、そばに立っていた枯れ木に寄り掛かって、ステンレスの水筒を傾けて水を飲む。腰の光線銃のエネルギーパックを先ほど武器庫から持ち出したものに付け替え、エネルギー残量が満タンになったのを確認してホルスターに収める。左足のホルスターからは拳銃を抜き、実弾を詰める。グロアールは、と眺めながら持て余し、考えあぐねた果てにとりあえず懐の中にしまった。
(さて、行くか)
 男は双眼鏡で前方を確認しながら、ゆっくりと、だが着実に一歩一歩進んでいく。女に接近を気取られてはならない。先手必勝で、相手が銃を抜く暇すら与えない内に斃す、シンクはそう決意していた。
 双眼鏡には生者も死者も、人影は映らない。この砂塵の中、女が外に出ている可能性は低い。どこか必ず屋内にいる。とすると、どの屋内にいるのかということが問題になる。女は自分が追われていると思っている。なら、屋外を、特に村の出入りを確認できるような場所に陣取るはずだ。
 村の門の影に隠れ、中の様子を窺う。中はしんと静まり返って、たださらさらと砂の雨が降り注いでいた。
 村の中央付近に尖塔が聳えていた。最上段には大きな鐘が吊り下がっていた。あそこがあやしいな、と当たりをつけると、シンクは景色と同化するような砂色のコートを翻して体を覆い隠し、足早に建物の影に隠れつつ進んでいく。
 無事に尖塔の前まで辿り着くと、腰の光線銃を抜いて、塔に近づいて行く。すると、右前方にあった砂の山が突然弾けて、制服を纏った警官が飛び掛かってくる。死者だった。それも自我を喪失して獣に成り下がり、生ある者を貪ろうとする醜悪な怪物。
 警官は口を大きく開けてシンクに食いつこうと飛び掛かるが、シンクはすんでのところでそれを受け止めた。だが、受け止めた拍子に光線銃が手から弾かれてしまい、離れたところに転がった。砂に足をとられ、押し倒される形になり、警官の腕を押えて耐えていたものの、シンクの方でも両手を使えない以上打つ手がない。死者の体力が無尽蔵だということを考えると、分が悪いのはシンクの方だった。
(腰の拳銃も無理か。ナイフも抜けない。なんとか一瞬でも動きを止められれば)
 降る砂の雨もシンクにとっては追い打ちだった。仰向けになった状態だと、視界がほとんど砂に覆われてしまい、死者の細かな動きまで分からなかった。それだけに、一瞬離れる隙があるのかどうかすら、判断ができない状態だった。
(くそ。こんなところでやられるわけには)
 必死で思考を巡らせていたシンクは、一度冷静になり、一から状況を整理しようと考えた。警官の飛び出してきた場所、角度、倒れた位置。自分の持っている、切ることのできる手札、と巡らせたところで、一つの策を思いついた。
 シンクは降り注ぐ砂に目を細めながらも、にやりと笑った。口中にじゃりじゃりとした、苦い砂の味が広がるが、意に介しない。
「グロアール、シールド展開!」
 シンクの掛け声とともに、彼と警官の間に黄緑色のエネルギー状の盾が形成され、警官を弾き飛ばす。その隙にシンクは跳び、光線銃を拾い上げると転がって構え、銃を発射した。  
 銃は眩い白い光線を放つと、一直線に警官の額を焼き、貫いて彼方へと伸び、粒子となって散った。撃ち抜かれた警官の死者はゆっくりと後ろに倒れ、二度と動かなかった。
 シンクはグロアールを収納し、光線銃を構えたまま尖塔の入り口に立つ。今の騒ぎを聞きつけられただろうか。シンクは逡巡したが、気づかれているとしたら、なおのこと迷っている暇はない、とゆっくり入り口の扉を開け、中に入る。
 尖塔の中は深閑としていた。痛いほどの静寂だった。生き物の気配はないように思えた。シンクは足音を殺して進み、階段を上がる。砂の積もり方が斑だ。人の出入りがある証だと確信した。
 螺旋状の階段は狭く、薄暗かったが、壁には絵画がかけられていた。描かれた絵はすべてヴィーナスやニンフなど、女の裸身ばかりだったが、すべてティツィアーノの絵だった。これはいい兆候なのか、悪い兆候なのか。シンクは迷い始めていた。女の裸身。美の化身であり、生命の萌芽を感じさせる絵。生命。これは女からのメッセージではないのか。「わたしは知っている」と。そうだ。知っているからこそ、女は俺の息子を殺したのだ、とシンクは手が汗ばんでいることに気づいてコートの裾で汗を拭って銃を握り直した。
 罪はどちらにあるだろう。女か、自分か。シンクは自問した。女にある、と彼は結論付けた。いや、そう信じたかったのかもしれなかった。女はただ欺瞞を破っただけだ、ということは彼の思考の片隅に、パンに塗ったバターのように香りを放ち、こびりついていたのだから。
 階段を上がりきった先に広間があり、その中心に背を向けた形で女は立っていた。
 シンクは慎重に広間に足を踏み出し、女の背中、その心臓の辺りに狙いを定めて光線銃を構えて引き金に指をかける。
「やっぱり、わたしを殺すのにあなたを差し向けるのね」
 女は背を向けたまま独り言のように言う。聞くな、とシンクは己に命じるが、一思いに引き金を引くことができない。そうしてしまえば、すべてが終わるというのに。
「シャーロット」
 シンクが女の名を呟いた瞬間、シンクの意識が銃から揺らいだ。シャーロットはその隙を見逃さず、振り返りざまに光線銃を撃つと、シンクの銃身にそれは命中し、シンクの銃は爆散した。
 シンクは腕を抱えて蹲る。爆発の衝撃で腕が痺れていた。出血はない。一時的なものだと思いながら、この瞬間完全に優劣が逆転してしまった、と臍をかんだ。
「あなたは隊長だったけれど、こと早撃ちに関してはわたしの方が上だったわ」
 シャーロットはシンクの方に向き直り、ゆっくりと近づいてくると、額に狙いを定めて艶然と笑った。長いブロンドの髪に、青というより緑に近い深い色の瞳。護衛部隊の一員を務めながら、広報のためにモデル活動をしていた彼女の美貌はこの砂塵の街の中でも、些かも輝きを失わなかった。
「わたしはあなたが来ると思っていた。わたしの夫であるあなたが」
「どうしてだ、シャーロット」
 シャーロットは肩を竦めておどけたように笑って見せ、「それはあなたが来ると思っていたこと。それともあの子を殺したこと」と唇のラインが鋭い剃刀の刃を描いたような、美しくも獰猛な笑みを浮かべて言った。
 どっちもだ、とシンクは押し殺した声で答える。
「理由の根っこは同じなのよ、シンク。あなたが陛下の忠実な飼い犬であるということ」
「陛下に忠誠を誓うのは当然のことだ」
 くだらないわね、と冷え切った目でシンクを見下ろすと、シャーロットは引き金に指をかける。
「それ以上あなたのくだらない建前を聞かされるぐらいなら、いっそ殺すわ」
 シンクは奥歯を噛みしめ、項垂れる。
「あなたにも分かっているでしょう。わたしがあの子を殺したのは、あの子が『わたしたちの息子じゃない』からよ」
 はっとしてシンクは顔を上げた。シャーロットは知っている。気づいたのだ。それが母性というものなのか。だが、皇后は気づかなかった。博士の作った機械人形(オートマタ)は完璧だったはずだ。
「男ってばかよね。いつだって女を欺いた気になっているんだもの」
「なぜ、気づいた」
 シャーロットは瞳に軽蔑すら浮かべる。「あの子が高熱を出して入院して、退院してきたとき。あなたがわたしを欺き始めたときからよ」
 シンクとシャーロットの息子は高熱を出し、皇都の病院に入院したが治療の甲斐も虚しく命を落とした。そこでシンクは妻のシャーロットを悲嘆させないために、機械人形(オートマタ)を息子そっくりに造り上げ、変わり身とすることを決めたのだ。奇しくも同じ日、陛下の子もまた同じ病で入院し、帰らぬ人となっていたために、陛下とシンクは相談して互いの妻を欺くことを決めたのだった。
「母親に見抜けないと思う? といっても、最初は気持ちの悪い違和感だった。だけど、あの子を殺す一週間前、決定的な出来事があった」
 甘く見ていたわけではなかった。だがシンクにはその機械人形がどこからどうみても息子にしか見えなかった。いや、息子だと信じたかったのかもしれない。そしてその悲しい共感を、妻なら根の部分で抱えて、分かち合ってくれるのだと、都合よく妄信していたのかもしれなかった。
「あの日わたしは旧時代の文献の翻訳をしていた。すると、ある単語を読み上げたところで、あの子の動きが不自然に止まった。まるで電池が切れた羊の玩具みたいに。すぐにまた動き出したけど、あのときの確信めいた直感は、同じことを試せと叫んでいた。それでわたしはまた同じ単語を繰り返してみた。『エクストラクト』と。すると、再び同じように止まった。それでわたしは、あの子が人形だと、そしてわたしたちの本当の子どもはもうこの世にいないのだと、あなたはわたしに対して惨めな裏切りを冒したのだと、残酷にも思い知らされた」
 確かに博士は旧時代の言語に通じていた。そのため、機械人形を制御する何らかのコードを旧時代の言葉で定めていてもおかしくはない。だが、その中の一つを探り当てるなど、砂漠で砂金の小さな粒を探すようなものだ。それをシャーロットが引き当ててしまったのは、運命だとでも言うのだろうか。
「わたしは一週間かけてあなたと陛下が隠したかったことを探り当てた。つまり、特A同士の遺伝子をもつ子は特Aの耐性を持つという皇都の存在意義である認識が、大いなる誤りであることを」
 シンクの体がびくりと揺れる。
「ふふ、反応したわね。骨が折れたわ。博士を捕まえて白状させるのは」
「博士を殺したのは君か」
「ご名答。死ぬ間際にすべて教えてくれたわ。あなたと陛下が機械人形でわたしと皇后さまを騙そうとしたこと。そして、特Aであるはずのわたしたちの子と皇子がDランクだったことを」
 そう、生まれたときは確かに特Aの数値を出していた。だが、生後半年ほど経って、急にDランクまで下がった。博士は特Aを出すのは母親の免疫機能を引き継ぐからで、それは半年ほどで切れるのだろうということだった。つまり、どのランクの子が生まれてくるかは、遺伝は関係ないということだ。もしそれが公の事実になってしまったら、皇都に対して反旗を翻す者が現れるかもしれない。だから、その事態を防ぐために、シンクは陛下の命に従って機械人形で妻を、シャーロットを欺いたのだ。
「皇后さまには話したのか」
 シャーロットは首をおもむろに横に振って、「いいえ」ときっぱりと答えた。
「話していないわ。でも、そんな必要もないわよ。皇后さまほど聡明な方が、気づかないはずないもの」
「ばかな。皇后さまは君ほど自由に動いて情報を手に入れることはできない」
 シャーロットは深いため息を吐いて、やれやれと首を振った。
「ほんとにばかね。皇后さまなら、機械人形を我が子だと差し出された時点ですべてを悟り、そして口を噤んだのよ」
 だとするならば、自分も陛下も皇后という人物を甘く見積もっていたことになる。これで陛下は一生返しきれない借りを皇后に作ったことになる。それがこの後の治世でどういう意味をもつのか、それが分からないシンクではなかった。
「君の口を封じること。それが陛下の命だ、シャーロット」
 シャーロットはせせら笑い、「させると思う?」と引き金に指をかけながらも、撃つ素振りを見せなかった。大方いつでも撃ち殺せると高を括っているのだろうな、とシンクは苦々しく思った。
「腰の拳銃。抜いて撃つのが速いか、わたしが引き金を引くのが速いか、勝負してみる?」
 腰に拳銃があるのは見抜かれていた。相変わらず抜け目のない女だ、と自分の妻ながら恐ろしくなる。早撃ちでは絶対に勝てない。シャーロットは万に一つも敗北を考えていない。
「チェックメイトね、シンク」
 そう、勝利を確信したとき、人は最も大きな隙を晒す。それがどれほど用心深い女であっても。クイーンを封じたつもりになって、伏兵で潜んでいたビショップを見落とすようなことをするのが、人間というものだ。
 シャーロットが引き金を引いて、銃を発射した瞬間、シンクは「シールド展開!」と叫び、グロアールが光の盾を生み出して銃から放たれた光線を弾き返す。その瞬間にはもうシンクは立ち上がって走り出し、懐から筒を取り出して「ソード展開」と叫ぶと、筒の先端にうっすらと光る黄緑色の刃が現れる。シールドでエネルギーを消耗した分、光刃は弱弱しい光だった。だがそれで十分だ、とシンクは踏み込んだ。
 シャーロットは第二射を放とうと銃口をシンクに向けるが、そのときにはもうシンクの光刃がシャーロットの右手を斬り落として、彼女は引き金を引くことはできなかった。驚愕と恐怖に歪んだ彼女の顔から眼を背け、シンクは光刃を彼女の胸に突き立てる。刃は彼女の肉を、骨を内臓を焼き、貫いた。
 ゆっくりとシャーロットは膝を突き、後ろに倒れていく。シンクはグロアールを放って、倒れる彼女を抱きとめた。
「模擬戦では、わたし、がいつも、勝ってた、のにね」
 シャーロットの口からは血がこぼれて流れながらも、彼女はようやく屈託のない笑みを浮かべた。
「昔から本番に強いんだ」
 シンクは目を背けたが、固く目を瞑って、心を決めて死にゆく妻の顔を見つめた。
「嘘。プロポーズの、本番、なんかぐ、だぐだだった、じゃない」
 そうだったかな、と笑ったつもりが、涙が溢れてきて、シャーロットの顔に降りかかったが、彼女は感覚もないのか、表情を変えずに、涙雨をその顔で受け止めた。
「ねえ。シエル、のこと、あい、してた?」
 シンクは彼女の手を握りしめた。どんどん体温が失われていく。死が間近まで歩み寄っている。
「ああ。ああ。シエルのことも、君のことも。大事で、大切だったんだ」
「ばか、ね。大事も、大切も、同じ、よ」
 ああ、ばかだよ、俺は。愛する者を騙して、殺して。それがすべて命令に従ったことだったのだから、大ばか者だ。皇都がどうなろうと、人類の夜明けが遠ざかる結果になろうと、裏切ってはいけない存在を、裏切ってその手にかけたのだ。
「シエル、苦しまずに、逝けた、かな」
 シンクは力が失われていくシャーロットの体を抱き締め、「静かな最期だったよ」と声を震わせて耳元で囁いた。
 シャーロットは満足そうに微笑んで、「なら、よかった」と呟き、その息を止めた。
 シンクは一人尖塔の中で泣き叫び続け、夜がきて、それが明けるまで泣き続けた。そして涙も声も枯れ果てたとき、立ち上がって、シャーロットの光線銃を腰のホルスターに収め、ナイフで彼女の髪を切ると自分の髪を抜いて結わえ、リュックサックの中にしまった。亡骸を抱えて尖塔を降りると、街外れの砂が薄いところに穴を掘って、シャーロットを埋めた。
 特A同士から遺伝子を抽出しても、特Aにはならない。死海波の耐性は遺伝子に左右されるものではないのだ。そのことを知っていた博士、シャーロットは死んだ。残るは自分と陛下、そして恐らくは皇后。とシンクは見当をつけると、皇后がそのカードを切ってしまわないか不安になった。そうなれば、十中八九陛下は皇后を殺すだろう。陛下は人類の存亡に強い使命感をもっている。
 だが、その使命感がシャーロットを殺させたのだ。しかも、それを夫になさしめるという残酷な方法で。
 陛下の刃となった自分の罪は逃れようもない、と彼は思う。と同時に、命じた者にも責任の一端を担ってもらわねば、道理が通らないとも思うのだった。
 シャーロットの光線銃を握りしめながら、シンクは砂塵の野を行く。その行く末に待つものが、己の死であり、人類の絶望であろうとも。

〈了〉

■サイトマップは下リンクより

■マガジンは下リンクより


この記事が参加している募集

SF小説が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?