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虚構日記~5月30日~

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■本編

 五月三十日(木)
 台風が近づいてきているが、天気は曇り。空もぎりぎりのところで持ちこたえている感じだ。
 今日はシャルと紫を連れて隣市の御小山公園に遊びに来ている。昨日が雨だったので、一日中家に籠っていたのだが、紫もストレスが溜まるらしく、泣いたり怒ったりと情緒が不安定だった。
 駐車場に車で乗り入れると、シャルが紫を下ろし、下ろした瞬間よたよたと覚束ない足取りで駐車場を歩き出してしまうため、慌てて私が抱きかかえる。すると抗議するかのように暴れ始め、「だう、だうー」と不平そうな声を上げて手足をばたつかせる。
 公園は名前の通り山の中に作ったような公園になっており、坂道や急階段が続いている。大人でも辟易するのに、そこを紫は物ともせず、我が道とばかりに闊歩していく。途中飛行機型の乗り物や、汽車の乗り物があって、それに目を輝かせていたが、シャルに「まずは昼食だな」とひょいと抱えられてしまって、「あうあうあー」と乗り物に向かって手を伸ばし、切なそうな声をあげた。
 坂を上りきると、神社の社がある境内に出るのだが、その手前にある石段の麓が芝生になっていて、平らだったし、昼食を広げるのに申し分ないということで、そこにビニールシートを広げてお弁当箱を用意する。
 紫は目ざとくお弁当箱を見つけ、自分の手で開けようとする。私は紫がひっくり返してはと先んじて弁当箱を開けてやると、中に詰まった玉子焼きや唐揚げに目を輝かせた。しかし「それはお前のではないぞ、紫」とシャルに取り上げられてしまう。
 シャルは紫用に作っておいた離乳食のパックを開けると、スプーンで掬って紫の鼻先に近付ける。紫はくんくんと匂いを嗅いで、右手でスプーンの柄を掴むと引き寄せ、ぱくりと口にくわえた。
「お前も食べろ。冷めてもおいしいはずだ」
 いや、と私は首を振り、弁当箱や箸、おしぼりの準備だけをしながら、「シャルと一緒に食べるよ」と言うと、シャルも微笑みをこぼしながら「そうか」とだけ言って紫に離乳食を与え続けた。
「最近のお前は」
 シャルは穏やかな表情で紫にスプーンを差し出しながら、そう言って切り出す。
「なんだい」と私は怪訝そうに首を傾げた。
「最近のお前の作品は、と言った方が正しいか。文章がおざなりだな」
 平穏な顔をして私の心をマシンガンで撃ち抜くような言葉に、私は胸が苦しくなる思いがして、俯いた。そこへシャルは容赦なく言葉の弾丸を浴びせかけてくる。
「セリフで誤魔化しているところが多い。動作も細かい表情や動きだけで、物語と連動するようなダイナミックな動きがない。描写も簡素だし、効果的な一文として差し込めばいいものを、そうした比喩や文章表現もない」
 私の心は撃ち抜かれ過ぎて穴だらけだった。聞いているのも辛くなって頭を抱えてうずくまる。
「シャル、どうしてそんな急に」と私は弱弱しい声をあげる。
「今思い出したからだ。お前の小説は生煮えの離乳食みたいなものだ。食べる人間――読む人間のことを考えた手間暇と時間が足りていない」
 おっしゃるとおりで、と私は反論する気力すらなかった。私も分かっていたのだ。私の今書いているものは、生煮えのものだと。手間暇と時間が足りないと。
「毎日一定量の小説を書くっていうのは大変なことなんだ。ネタを考えるのもそうだし、それを文章というかたちにするのにも骨が折れる」
 知っている。とシャルは一刀で私の心をばっさりと斬り捨てるように断言した。
「だがそれをやると決めたのはお前なのだろう?」
「そ、そうだけど」
 シャルはふっと微笑み、その顔を見上げていた紫が「まんま、だう」と手を伸ばしてシャルの赤い髪を掴んで引っ張ったが、シャルは表情も変えずに紫の好きにさせている。
「ならば、お前の納得できるかたちでやり遂げるんだな。今のままでは悔いが残るだろう」
 ほら、紫。とシャルは紫を抱きかかえなおすと、プラスチックのマグを引き寄せてくわえさせる。紫はストローになっている飲み口をくわえると麦茶を吸って飲む。
「シャルは後悔したこととかあるのかい」
「私か?」
 そう、と頷くと、シャルは「そうだな」と紫の髪を撫でながら考え込み、「私は歌手になりたかった」と恥ずかしそうに呟いた。
「歌手?」
「ああ。だが、お前がイメージするものとは違うかもしれん。私がなりたかったのはオペラ歌手だ」
 そう言ってシャルは美しいソプラノの声で『椿姫』の「乾杯の歌」を歌った。その透明感のある歌声に、梢の上で鳴き交わしていた小鳥たちも鳴くのをやめ、通りがかった人たちがみな足を止めてその歌声に聴き入った。
「とまあ、こんな感じなのだが」
 そう言って歌うのを止めたときには、我が家のビニールシートの周囲には人だかりができていて、シャルは薬缶が沸騰するように顔を紅潮させて、今にも蒸気を吹き出しそうだった。歌っているときには目を瞑っていたから気づかなかったのだろう。狼狽しながら「これは見世物では」とか、「散ってくれ。解散だ、解散」と言って慌ててギャラリーを追い払った。ものの五分もすると、公園内には元の静寂と喧騒との狭間くらいの雰囲気が戻ってきた。
「そんなに上手いのに、どうして諦めたんだ」
 私とシャルはいただきます、と手を合わせて弁当に箸を伸ばし始めた。シャルは紫を抱えつつ、膝の上で髪の毛で遊ばせていた。
「オペラは上手いだけではだめなんだ。私の最も苦手とする、感情の表現ができなくては」
 ああ、なるほど、と合点してしまう。一度シャルがせがむのでオペラを見に行ったことがあったが、歌手たちは歌声だけでなく、身振りや表情、全身を一つの楽器にして登場人物の心情を表現していた。シャルの歌は確かに上手い。透明感のある声もいいし、音程も正確だし声量もある。だがどこか平板な感じがしてしまうのも確かだった。
「でも、諦めずに努力していれば、ひょっとしたら」
 最近のシャルは表情も豊かになってきた。これまでは眉ひとつ動かさない、冷徹なマシンのようなところがあったけれど、紫と接するうちにその頑なさが氷解して、感情が雪解け水のように溢れてきているように思うのは、私だけだろうか。
「そうだな。だから後悔だ。だが、それでよかったとも思うんだ」
「どうしてだい?」
 シャルは紫を抱きかかえて顔の横まで掲げると、にっこりと笑む。それを横目で見ていた紫が「あうー」と満面の笑みで喜んで手足をばたつかせる。
「今の選択があるから、今の私がある。お前や、紫と一緒にいる私がな」
 そうだね、と私も思わず笑顔になって頷く。
「だがな、お前の後悔と私の後悔は質が違うぞ」と途端に厳しい声になって言う。
「私は、お前の可能性を信じているからそう言うんだ。やれることは、残さずやっておけ」
 ついでに、と弁当を指さして笑む。「弁当も残さず食え。いいな」
 大量の唐揚げやおにぎりは優に四人前はあった。シャルは大食いでもない。せいぜい一人分しか食べないだろう。三人分を胃の中におさめなければならないと思うと、それだけで胃液が上がってきてあっぷあっぷしそうだった。
「了解しました」と忠実な兵士のように返事をして、私は両手に持ったおにぎりにかじりつく。それをシャルは満足そうに見つめ、紫は「あだう」と涎を垂らしていた。

〈後日に続く〉

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