見出し画像

留学生活で考える、文化、ジェンダー、ご飯

アメリカのマサチューセッツ州アマーストというところに留学しているサリです。こっちにきて4ヶ月、いろんな人と知り合って話す機会をもらえたけど、めちゃくちゃ仲良くなったのは、アメリカで生まれ育ったウイグル人とドミニカ人の子たちでした。二人ともめちゃくちゃ優しくて、州内にあるお家に呼んでくれたり、車で送ってくれたり、夜立ち入ったら本当はまずいところを一緒に探索したりと、いろんな時間を過ごしてきました。その中で、それぞれの文化を知る機会をたくさんもらって、めちゃくちゃいいなっていう時と、少し考え込んでしまう時があったので、ここに残しておきます。

ムスリムのアジア人

ウイグルは、中国にいる少数民族で、イスラム教を信仰し、中国語だけじゃなくてアラビア語やペルシャ語に影響を受けた独自の言語を持っている。東洋と西洋がミックスしたような顔が特徴的で、私の友達は、眠くて目が座ってる時はちょっと白人に見えるけど、シャッキリしてる時はもっとアジア人に見えるから不思議。政府は強制収容所で彼らに対して中国語・愛国教育を続けていて、収容所に行ったまま戻って来れない人も多く、民族浄化が進んでしまっている。ボストンやワシントンにはウイグル人のコミュニティがあって、お祭りごとが好きな彼らは、季節ごとに集まってはパーティーをして盛り上がるらしい。

友達から新年パーティーがあると聞いていて、とても興味があったので実際にお邪魔することにした。イスラムの文化から、豚を食べないこと、お酒を(公衆の面前では)飲まないこと、ヒジャブを纏っている人が何人かいることが印象的だった。美しい民族衣装に身を包んだ女の子たちがハイテンポな曲に合わせて踊ったり、みんなで踊ったり、ワルツが流れたらカップルダンスをしたり、ウイグル料理を食べたり。みんな各々、楽しそうに音楽に合わせて踊っているのがすごく新鮮で、個人的にはこんな踊ることにcomfortableなアジアの人に初めて会ったなと思った。一緒に踊るのはすごく楽しくて、そして歓迎してもらえている感じがして嬉しかった。

香ばしい男女役割分担

でもいくつか、別の意味で新鮮なのか、なつかしいのか、頭の片隅に残る部分もあった。男女の役割分担がとても強くて、男性同士の(家父長的な)つながりが異様に強いのだ。まず、席は男女ではっきりと分かれている。子供たちだけは性別問わず一緒に座ることができる。男性が踊る曲、女性が踊る曲が決まっていて、男性は腕を力強く動かす踊り、女性は腰や腕、首を繊細に動かす踊りをする。みんなで歌う国民的な曲(日本で言う加山雄三か坂本九ちゃん的な立ち位置の人の曲)では、男性だけがステージに集まり、女性たちは席で歌っていた。女性たちが手を叩いて盛り上げる中男性たちがひとしきり踊り、その後女性たちが踊り出した時には、男性たちはほとんどいなくなっていた。ぞろぞろと戻ってきた時には、酒やタバコの匂いがした。「ああ、(男性だけで)みんなで吸って飲んできたんだな」と、少し違和感を覚えた。そして、カップルダンスの時には必ず男の人から女の人にダンスを申し込むので、既婚者はパートナーのところに手を差し出しに行く。ダンスが始まると、相手がいない人たちはガランとしたひとり席に残っていることになるから、シングルの人はこういうパーティーに行きにくいだろうなと思った。そして、誰と誰が踊ったか、とかで、年配の女性たちから噂されることもあるらしいと聞いた。

これは新鮮なように見えて、強烈に懐かしくもあった。日本(の特に田舎の方)の、非常に香ばしい家父長的な役割分担。お祭りでの御神輿とか、名誉ある役割は男性のもので、女性は裏であくせく働き、食事の時には男性はふんぞりかえって酒を飲んだり、男性同士でおしゃべりしたりする。なんなら国技の相撲も、土俵に女性が立ち入ったら清めの塩が撒かれる世界。それが当たり前だったから、少し経ってジェンダーを勉強したり、少しコミュニティから離れたりするまではその異常さに気づかなかった。ウイグル人の友達も、「ここでずっと育ってきたから考えたことがなかった」と言っていた。こうして男性・女性によってかたく役割が決められて成立している社会では、苦しむのは女性だけじゃない。男らしくあらねばという圧力や強迫観念だって、無害じゃないのだ。日本の男性の自殺率の高さも、この文化の息苦しさを表していると思う。「文化」なんだからそのままに残していこうという考えになりがちだけど、今は、その文化を尊重しつつ、でもちゃんとみんな生きやすいように変えるとこは変えていこうという考えでいる。

日本を離れて感じる「根無草」のような感覚の中で、こういう民族コミュニティの集まりを見ると、なんともグラマラスに見える。帰ることのできる場所、地縁と血縁。でも忘れてた、こういう狭いコミュニティの生々しさや息苦しさ。そういう部分、愛憎というか、酸いも甘いも含めての「ホーム」なのかもしれない。

スペイン語、性別のある形容詞

ドミニカ出身の友達のおうちでは、お父さん・おばあさんはスペイン語しか話さない。お母さんは少しだけ英語を話す。だから、友達に通訳してもらわずとも、泊まらせてもらっている間の生活を成り立たせ、そして感謝の気持ちを伝えるために、スペイン語を少しずつ覚えていた。その中で、どうしても引っ掛かってしまったのが、スペイン語の女性形・男性形だった。例えば、お腹いっぱいを意味する言葉は、発話者が男性の場合はsatisfecho、女性の場合はsatisfechaになる。それを学んでいく過程で、「あなたは女性だから」この言葉が正しい、という理屈が必ずついてくる。男性・女性どちらも当てはまらない場合どうするんだろう、とか考えてしまうし、「私は女性だから」という理由が必ずついてくるのは、少しだけ疲れてしまう。

家庭料理の温かさ

ひっさしぶりに家庭料理を食べて、泣くかと思った。てかちょっと泣いた。ここ最近寮が食糧難というか、食堂が閉まって食べ物がない上に、わざわざバスに乗って買ってきた食料は誰かに盗まれまくるという苦しい状況にいたので、高いお金を取られずに美味しくてあったかくて栄養のあるご飯が食べられることが嬉しくてたまらなかった。本当に実家のありがたみが染みる。一人旅でもかなりひもじい思いをした。一つ一つのご飯が高いので、宿のレンジで色々と食べてみたが、缶のものやレンジ用のものはやっぱり味が劣る(というか正直不味い)。そういう生活を何日も続けていると、どうしてもメンタルヘルスに影響を与えたりするのだ。

料理しよう、と思っても、食材だけでは満足に作ることはできない。調味料や特定の調理道具は、長い間滞在する予定がない限りは揃える気にならないものだし、そもそも揃えられる食材にも限りがある。その点、友達の実家に行った時、①調理器具の豊富さ、②調味料の揃い具合、③(馴染みのある)食材へのアクセスの違いに、寮生活と比べて驚いた。冬休みの目標の一つに、お雑煮をどうにか作って食べる/振る舞うというのがあるんだけど、かなり大きなプロジェクトになりそうだ。また書きます。


(トップの写真は、知れば知るほど、求めれば求めるほど遠くなっていくように感じるホームのイメージです。モントリオール美術館でで会いました。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?