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40歳ぐらいからか、桜や自然を美しいと思えるようになった ”未熟” な理由

桜を見に近所へお散歩。満開! 自分をアップに自撮りするも美しくない。桜だけを撮影するも味気ない。背景がメインでちょこんと小さな自分、これがちょうど良い。

大学生の頃か、テレビで、日本人が好きなイベント(正月、クリスマス、お盆など)をランキング形式で当てるクイズ番組を見た。ボク的には、絶対にクリスマスでしょ、と思ったけど、学生の幼稚な思考でした。一番は「花見」。ダントツ。当時は信じられなかった。

でも、大人になると、花見、いいですね。もはやクリスマスも誕生日もバレンタインも何も起きないが、花見は独りでも成立。酒飲みながら皆でワイワイも良いけれど、独り歩きも気持ち良い。この門戸の広さもランキング1位の原因か? 桜の下を歩くだけで穏やか。

桜に限らず、木々の、花の、様々な色、自然の景色を心から素敵と思える。葉が落ちきった木々も凜として大好き。40歳超えた頃からわかり出す。昔は全く興味なかったが。

これはどうしてなのだろう。

若い頃は主人公は自分。自分ばかりが気になる。自分の未熟さもわかる。そして、自分にばかり気をとられ、成長しないと、成功しないと、一目置かれるようにならないと、とがんばる。鏡を見ては映る自分が気になる。そんな思考。「背景は自分のためにある」。常に背景が自分のために存在するような、そんな大人に成長しなければ。早く未熟を脱しなければ。

ところが今は、背景中心。背景を汚さない、背景に染まる、背景をより美しくする、そんな自分であろう、と思える。なぜなら、いつまで経ってもひとは未熟なんだ、とわかってしまったから。未熟から脱せられない。

何かに秀でた一流であっても、それ以外の面は未熟。それが常。努力したって一流に手が届かない場合も常。努力が常に結果につながるとは限らない。当たり前とわかる。「結果につながらない努力は努力とは言わない」「単なる努力不足だ」なんて揶揄する主張もありえるが、これは浅い思考だと思う。

それに、社会で生きると、自分にこだわり、自分中心に終始する、はあり得ない。そうあるべき時もあるが、多くはバランス・妥協・折り合い。

・自分らしさを大切にしながら、自分を捨てる調和も大切。
・慣習は疑うべきだが、従うのは平気。且つ、起源を尊重できる。
・ルール・マナー・エチケットはうざいが、守る心地良さは感じられる。
・ユニークであるべきだが、ユニークであらぬべきもわかる。

ということで、桜は自分を引き立てるためにあるのではない。桜の美しさの中に、ちょこんと存在する自分で良いのだ。桜の美しさに自分の存在なんて及ばない。背景が主人公。写真全体としてもそれが美しい。自分が中心で美しい時もあるが、自分が控える方が美しい時もある。自分は小さくてよい。鼻息荒くする必要がない。だからこそ、穏やかであれる。

桜をはじめ、自然には敵わない。学生の頃、若い頃には知り得なかったが、結局、大人になっても、いつまで経ってもひとは未熟。永遠の未熟さを知るから自然のすばらしさに素直に驚愕。キレイだな。そう思える。

大人になって真・善・美がわかるのかな。良いことかな。

そんなことを考えて桜の下を歩く日曜でした。あ、でも、若者はどしどし自分中心で、自分を高めようと鼻息荒くいてもらいたいものです。

読んで頂きありがとうございます。
(最近出会った素敵な気づきフレーズv7_79)


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