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国民性の違い。「違い」に着目すべきか、「違い」は無視するべきか。

カフェでコーヒーをおともにパソコン作業。すると、隣の方々の声がちょっと大きくて、勝手に耳に入ってくる。

男性2人。アメリカで働いていて出張で日本に来ている方と、アメリカの会社の日本法人で働いている方。家族はアメリカ、とのこと。

話の内容は、なぜアメリカに行ったのか、その前はどこで働いていたのか、幼い頃の家庭がどうだったか、などなど過去から現在まで。まるでボクに紹介しているようです。

で、2人とも日本人だけど「日本」は合わないらしい。


理由は:

世間体が強い、空気を読まないといけない、周囲に求められる自分にならないといけない、組織にいてもだいたい新しい挑戦に批判的だ、本音を言わないから何考えているかよくわからない、原則、上司の指示通りにしか動かないと、などなど。。。


さて、日本は総論として、だいたいこういう感じに、お国柄、国民性を評価される。

ま、わからんでもないとも言えるのだが、違和感を感じる。


まずは:だいたいがアメリカとの比較での「日本」だからだ。枕言葉としてアメリカと比較すると日本はこうだよね、ならわかるけど、「日本」は絶対的にこのような国だ、と語られる。

アメリカと言っても広いのだ。前々回の大統領戦でトランプが勝つなんてだれも思わなかったように、アメリカは多様なのだ。

そして:だいたいが、アメリカの西側や東側でばりばりビジネスしているような人々と日本人を比較する。そして、不公平なことに日本側は英語もまだぺらぺらではない”普通”の人達との言動と比較するのだ。

まるで、大リーグと少年野球を比較しているかのようだ。。。

それに:アメリカで英語で会話するなら、なんでもストレートに自分の意見を言えばいい、なんてことはありえない。表現の背景にある機微も察しなければだし、英語はニュアンスがとても重要だ。空気を読む必要はある。社会的な動物としての人間はアメリカでも同じだ。それに、アメリカで会議しても、ひと言もしゃべらないひとだってもちろんいる。とにかくしゃべらないとダメ、なんてことはありえない。

また:日本だって一定のレベルで複雑な仕事をしている環境では、ストレートな議論をしないと意志決定なんてできないし、上司の言うことに右に習えなんてことはない。世間体を気にして、石橋を叩いても渡らない企業ばかりで、どうしてグローバルに活躍する企業が存在するのか。。。海外と取引しながら。。。

まるで、差を明確にすべく、両国民性を誇張しているかのようだ。。。


あるいは:何らかの理由で、日本で空気を読まずにいたことや出る杭で打たれた不幸な経験と、上記のような「日本とはそんな国」を紐付けて、個別性を排除して、「日本」全体を悪者にした、のかもしれない。アメリカで幼少期を育ったとしてもそう教育される可能性はある。

つまり、個別性が強い。

そして:こんな世間体に苦しめられない「自由」への希望を持って日本を飛び出す場合、だいたいがアメリカか、欧州か、オーストラリア、ニュージーランドあたりになる。いわゆる西洋。特にアメリカ。

だから、多くが西洋/アメリカとの比較において、日本は、空気を読まないとだめで、世間体を優先せねばならず、集団行動を優先せねばならず、個性を殺さないダメ的になる。

アメリカの映画、小説などでも、日本の集団行動優先を揶揄している作品が逆輸入され、先入観を助長する。

いずれにせよ:アフリカとの比較ではないし、南米との比較ではないし、東南アジアとの比較ではないし、中東との比較ではないし、「世界平均」との比較ではない。


火星人がいたら、地球のひとびとは国がどこであれ同じように見えるはず。

でも、地球人は、自国と他国との「類似」には目がいかない。「違い」が目に付く。「違い」を探してしまう、無意識に。。。

それに「違い」について会話する方が、会話としても盛り上がる(TV番組やSNSのコンテンツになる)。


そんなこんなで、違和感を感じてしまう。

もちろん、習慣、慣習、文化、伝統、歴史、それにこれらの多くが根本的に起因している地理的な問題(気候、自然、面積、形状、隣国との距離など)の違いは明確。

だけど、これらから生まれている国民性の評価に、個人的先入観も大いに影響している。

そして、そう思うボクの考えこそも、個人的であり、先入観がある。それはわかっている。


ということで:
国民性の差を強く感じるひとも、差をあまり感じないひともいる。

マスコミや映画や小説やカフェで隣になったひとが何と言おうと、どうでもいいのだ。

自分が、国民性、その違いの有無・程度をどう思うかが、自分にとっての真実なのだ。

日本からアメリカに出て、幸せならそれでいいのだ。日本に違和感を感じ、違う場所で幸せならとっても良いことなのだ。

アメリカでもどこでも、日本を飛び出した後に一生懸命努力したはずなのだ。日本が合わないと思ったにせよ、海外で生活して、成功し、幸せになるのは大変なことなのだ。一回、飛び出したのだから、その逃げられない場所でとってもがんばったはずなのだ。


国民性に違いはある。

でも、その国民性の違いを、恣意的に、無意識に、広げている、あるいは逆に広げていない、先入観・固定観念・個人の経験・思考のクセもある。

違いに着目することで、幸せな人生を掴むこともある。

違いを気にせず、同じに着目することで、幸せな人生を掴むこともある。


男性が好きな日本人の男性友達が何人かいる。その内の、

アメリカに渡り生活している1人:
最初はいずれにせよ大変だったし、今でも慣れないことはあり大変だけど、日本より全然生活はしやすいし、向こうでパートナーに恵まれ、楽しく、幸せに生活しているよ、と言う。

日本に住んでいる1人:
最近になるまでは非常にしんどかった。自分の素直な気持ちを言えないし、男性が好きなことを隠さないとと思って来た。が、今は時代も変わって来ており、仲良しのパートナーもいて、自分の両親も含めて二世帯で仲良く暮らしていて、周囲の理解もある。楽しく幸せだよ、と言う。

2人とも英語はペラペラだけど、違う道。


国民性なるものに、大きな違いがあるのか、無いのか。。。
個々の選択で、幸せを掴めばればいいですね。



お読み頂きありがとうございます。
(v9_25)



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