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自分を、仲間を、ビジョンを、将来を「信じる」。本当? 本当に信じている?

「信じる」って言葉に立ち止まる。ボクって何かを本当に信じているのか・・・。昨日に続き「春宵十話」(岡 潔著、光文社)から、気づきの一文。

ある寺の奥さんが非常に高徳な上人のお話で、お浄土というよいところがあって死ねばそこへ行けると聞き、すぐに信じ切ってさっそく自殺しようとしたという。私はこれを聞いて、信じるということを初めて教えてもらったような深い感銘にすっかり打たれてしまった。

「春宵十話」(岡 潔著、光文社)

本当なの?なんともおバカかな女性じゃないの、と思ったけれど、
これとは別に自殺したい原因があったのでしょ、と思ったけれど、
誰かが止めてくれるとの思惑があったんでしょ、と思ったけれど、
その高徳な上人に媚びを売りたかったんでしょ、と思ったけれど、
そもそもこんな話をする人がどうして高徳なの、と思ったけれど、

でも、「信じる」という言葉に、立ち止まって、考えてしまった。「信じる」という言葉をボクはとても簡単に使っているな、と我に返ってしまった。「信じる」って本当はかなり難しいことなのだ。素直な気持ちに従ってこんなにおバカなことでも即行動を起こしたくなるようなことが「信じる」なのか。

自分は何かを「信じて」動いているのか?
仲間はボクの言うことを「信じて」動いているのか?
むむむ、怪しい。。。やらないといけない雰囲気なだけ?
「信じている」と言うけど本当に「信じている」のか?

「リーダーは自分と仲間とビジョンと、それらの成長の未来を信じないとリーダーになんてなれない」なんてボクは簡単に言っているのです。

でも、未来を信じるなんてかなり鈍感なのか、思い込みが激しいのか、なかなか実は難しいはず。口では言うけど本当に信じているのかな。。。

「リーダーに大切で必須な仕事・チカラは、仲間が日々、取り組む仕事がそれぞれに甲乙なくとても大切で、価値があり、意義深いことだと、信じさせされるチカラ。だから仲間が行動できる」なんてこともつい簡単に言っているのです。

でも、細分化された小さな仕事から、全体を想像して、自分のやっていることはなんて価値あることなんだ!なんて本当に信じさせられるのかな。ピラミッドの石切職人/石を運ぶ労働者の話は比喩として理解するが、本当にありえるのかな。気を遣ってもらって信じているふり? 別のメリットがあるから?

一体、ボクは何かを「信じている」のかな。本当に自分のビジョンが社会に役立つって信じているのかな。別に大したビジョンではないよ、正直、と思っているのかな。

仲間を信じていると思っているけど、本当に成長する・変化すると信じているのかな。一定の仕事はするし問題ないけど、ビジョンドリブンなんかではないよな、だから、いつか、転職するんだろうな、と思っているのかな。

自分も、仲間も、ビジョンも、それらの将来も、日々がんばっていることの価値を「信じる」ことは、とても、とても難しい。でも、だからこそ絶対的に「信じられる」状態になると嬉しいのでしょうね。人生とは、自分が自分を絶対的に「信じられる」ようになる道なのでしょうね。ゲーテの言葉のようだけど、まだほど遠いことに気づいてしまった。

更に、「絶対的」に「信じている」のではないけれど、「相対的」にはより強く信じているとわかったのです。自分で自分を「絶対的」に信じていないけど、「信じない」よりは「相対的」に「信じている」。今追いかけているビジョンもそれが社会的に意義があって、多くの仲間が賛同してくれているなんて信じてはいないけど、その他のありえるビジョンよりは「相対的」に強く「信じている」。身近な仲間も「信じていない」よりは「相対的」に「信じている」。そう整理した。

そして、こんな弱々しい「信じる」であっても、その道を歩んでいると、挑戦・成功/失敗が繰り返され、「信じる」が強まっていく(弱まっていく?)のでしょう。あぁ、つまり、経験ってことか。まだまだ経験不足ってことですね。いつかは「絶対的」に自分をビジョンを仲間を将来を心から信じられるのかな。。。世の中、「絶対」なんてことはありえないけど、自分が思うだけなら「絶対」はありえますものね。思うだけなんだから。

自分をとにかく信じよう。そうすれば人生の道が見えてくる(ゲーテの言葉らしいです)


読んで頂きありがとうございます。
(最近出会った素敵な気づきフレーズv7_82)


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