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心はいつでも半開き/角煮の気持ち

「甘えていいよ」。

人生で初めていわれた。正直、どうしていいかわからなかった。
言われて初めて気がついた。
どうやら私は、自分が思っている以上に背伸びをしていたのではないか。
常に完璧であろうとするあまり、本来の、「怖がりで寂しがりやな自分」という存在を置いてけぼりにしていた。

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(よく泣く子だった。)

早く大人になりたかった。家族に心配をかけたくなかった。
友人にも、知人にも、だれにも心配をかけない存在になりたかった。
おかげで「しっかりしてる」「頼りになる」「肝が据わっている」
そうした言葉をかけられるようになった。


なろうとした自分になれた。
なんていたたまれない気分なのだろうか。

「お前は子どもなんだから、黙っていればいい」そう言われない人間になった。なれたら困ったり、悲しんだりしている人を助けられると思っていた。実際そうだった。そうして気が付く。自分が助けられた時の苦しさに。

自分の弱さを見せた瞬間、信じてくれた人たちを裏切ってしまうのではないか、という恐怖。そんな宿痾が9歳のころから続いている。
「甘えていいよ」。本当にいいのか。
そう言われて出ていくのは、浮ついた言葉ばかりだ。本当はもっと伝えたいことがあるのに、伝える言葉は残されるばかり。
雨が降る日は雨のように、風が吹く日は風のように、晴れた朝には晴れやかに、ただそうあることができたなら、どんなによいことなのだろう。

もしもピアノが弾けたなら
思いのすべてを歌にして
君に伝えることだろう
        「もしもピアノが弾けたなら」詩:阿久悠 歌:西田敏行

そうしてこの歌は夢物語で終わっていく。

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(菊正宗を片手に眺めた桜は奇麗だった。見とれて湯冷めした。)

私はピアノを弾けない。
けれど住まいをつくれる、
けれどうどんを打てる、
けれどお酒を楽しく飲める。
そして、苦しいときも笑ってられる。

どんな言葉にしていいか、まだわからないけれど私には、
伝えるすべはあるようだった。

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(東京の夜。明かり一つひとつに痕跡を感じる。程よい距離間。)


さて、そうこうしているうちに角煮が仕上がった。明日、お店でお出しする分だ。どうやら、豚バラを煮ているこの時間は、文を書くにはちょうど良いようである。最初は調味料を重ねていた角煮も、徐々に味を減らし、今はスパイスを加えて香りを深みを与える段階に入った。
出来上がりが大変楽しみだ。

角煮は素直な料理。焼きすぎれば固くなり、茹ですぎれば渋くなる。
なんでもきっと、やりすぎはよくないのだ。
心地よい熱量で、程よい塩梅に仕上げる。
仕上げた後は少し寝かして、味が染みるのをしっかり待つ。
待って待って、待った末にもう一度、熱してあげる。
そうしてあげればとびきりおいしい角煮になる。

他のことならできるのに、
いざ自分のこととなるとうまくいかなかった今まで。
生み出すものには自信があるのに。
私の心はようやく、半開きなのである。
でも、ほんのあと少しで、もっと開ける気がしてならないのは、
今日の角煮がとびきりうまく仕上がったからだろうか。

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