見出し画像

身体感覚から考える~感覚がウソをつく訳

我が身ひとつで生きている。いやいや、社会関係があるから、私に存在価値がある。個なのか集団や組織なのか、どちらに属するのが幸せか、みたいな話なんですが。昨今の世情に、そんなことを改めて考えたりしています。

自分って、どこに生きているという実感があり、どこにその価値を置くか。公私とも言い換えられそうな、その両方のバランスをうまくとれたらいいよねぇ、、と思いつつ。

実際、なかなかうまいこといかんがな。(笑)


例えば、感覚を鈍くするといちいち感覚しないで済みますから、辛いことをやり過ごすのに役に立つんですよ。たぶん。

度が過ぎると、尻に火がついてても、気づかず致命傷に。なんてことも??

見ざる、言わざる、聞かざる。なんてある意味、日本社会の美徳、あるいは、お作法的な。それが利害関係のある対人関係なら、暗黙のルールっていうかね。波風立たせず、スルー。我を立たせず、右へ倣えで安心。みたいな。

それでほんまに、安心なんですかね。それで自分自身、本当に幸せ~って、肚の底から実感できるんやろうかしら、と思う。その場は、社会的に他者の目を気にしてやり過ごせるかもやけど、棺桶入るときは誰もが独りでっせと、結構フラットな目線でいたりします。

さて、我々の感覚なんですが、鈍感があって敏感がある。過敏ってのもあります。その程度は、まあ主観ですが、言葉の違いの分だけ、違いがありそうですな。そもそも定型があって、数値化できて、確実に測れるもの、ではないですね。

我々個々が、生き抜いていくための最終的な判断は、どこの専門家がどうたら〜とかいうことよりも、自分自身の声(感覚)に従うことと思うんですが、その感覚は嘘をつく。それ、よくよくみてみると、社会での自分自身を守るためにそう成る。誤魔化すんですね。そうじゃないですかね。

その自分自身というのが、社会的役割(承認を得て成り立つ)の私なのか、身体(個性)を持った一生活者の私、なのか。ここの境がよくわからなくなると、基本は、具合悪いんちゃうかと、思うんですよ。その具合の程度も感覚、ですな。

自身に鈍感なままでいるなら、そのまま棺桶まで~が幸せなんかもしれんなあとか、毒づきつつ。^^ 

それは、個人が自分自身をどう認識しているかに依る。それは多分に他者との関係性依存だったりしますね。われわれ社会的動物ですから。

というお話をずっとしてるつもりなんですが、伝わってますかね。。

いずれにしても、それがどのような感覚経験で形作られた個性(アイデンティティ)であっても、人ってなかなか自分自身というものを捨てられない。捨てられないから、自身の感覚に嘘をついてまで、社会的自分自身を生かそうとするんです。

いいね!☜これも、価値?ね。

長年生きていればいるほど、その価値観に依る自分自身なんてものは、容易に脱いだり着たりできなくなってくる。それぞれの社会の一員であれば、なおさらのこと。そしてそこに利害損得があれば、なおさらなこと。それが大人であり、社会人であり、みんなそうじゃないか。と、自身に言い聞かせつつ。。なんてことを、ここ2年は、目尻に見ながら、痛切に思ったりするんですな。

だけどもね、人ってそもそもが、社会的役割や肩書では、到底測れないもの、じゃないですか。

ここに来て、やはりきちんと人(自分自身、他者)を観て、人と人の間で生活、活動したいなあと思うんですよ。ぶっちゃけ、他人様のことよりも、まずは自分(身体)の声に耳を澄ませたいと思うんです。そうする価値は、十二分にある!と思います。

ずっと、この身体と付き合っていくんだからね。この先も。

自分って、今目に映る、目を閉じていてもまぶたに映る(笑)自分がまさに今、生きている世界と虚構とを創造してくれている基盤じゃないですか。脳は判断する。感覚するのは、身体ですよ。

そうすると、例えばですね、自分自身を大切にする程度にしか、他者のことを大切にはできないよ。なんてもっともらしい台詞の意味も、ちょっと変わってくると思う。

なんてことを、今一度、この旧正月に、反芻してみたりする。

引き続き、自分自身の快、不快の感覚、その移ろいを見つめていたいと思います。

体癖論、人間を考えるにも、面白いよ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?