小礼拝堂にて
アドヴェント(待降節)を迎えましたね。
毎月通っている、聖書を読む会。ここ2カ月ほど用事が重なって(コロナにもかかったし)欠席しているので、クリスマス月の今月こそは、と、カレンダーをにらんでいます。
礼拝のほうは、毎年、イヴ礼拝だけ寄せてもらっているのですが、来月まで忙しくしているので、さすがに今年は無理そう...。
そんなわけで、今回は数ヶ月前の集まりの様子を書き記しておこうと思います。もちろん私のことですので、信仰とは違った切り口から、となりますが...。
🌟 天地創造
集まりと言ってもその日は2名。牧師夫人もいらっしゃらなくて、なんと、牧師さまとふたりきりではありませんか(ドキドキ)。
とはいえもちろん、この日記の眼目はそういうロマンティック(?)なおはなしではありません。私が内心「やった♡」と思ったのは、本筋の聖書からやや離れたマイナーな質問ができるから。
折しも、その日読み解いた箇所のひとつに、ヨハネ福音書がありました。観念的といわれるこの福音書は、以下のように始まります:
「イスラエルの神さまって、《ことば》で天地創造したんだって」―周辺文化圏の神さま方からの、驚きの声が聞こえてきそうです。
たいていの神話では、複数の神々同士で天地を作る過程で、身ごもるないしは巨人のような生き物の身体の一部を使うなどし、《肉体》から天地を創造していますから。
ヨハネによる福音書のみならず、本家本元の創世記でも、ことば(しかも命令形・笑)で世界を造り上げた様子が、こんな風に語られるのです。
「どうして、神さまは唯一神で、かつ言葉で世界を作ったんでしょうか? キリスト教もユダヤ教も、言葉をすごく重要視していますよね」
と、お訊ねしてみると、意外にも牧師さま、我が意を得たりの勢いで、
「言葉以外、何も頼るものがなかったからではないでしょうか。バビロン捕囚などを考えても」
「たしかに、国もないし、持ち物も財産もないですものね。自然環境も厳しそうだし」
なるほど...と思い、こうお返事したものの、それからさらに考え続けた私は、今はこう考えるようになりました。
旧約聖書は紀元前4〜5世紀に成立と言われていますから、エジプトやギリシャ、エーゲ文明、さらにはメソポタミア文明など、先行文明の神話や口承などの影響を受けているはず。その上で、「うちの神さまが一番すごい」という設定にするために、王様のような《唯一神》制度を選択、周辺の神々をその下に位置付けた。
唯一無二の存在となると婚姻はできませんから、ひとりで天地創造を成し遂げることになった。世界を創る前の《無》との対比を強く感じさせる神話でもあるし、また《ぼっち》感のある神さまでもありますね。《ぼっち》ならではの高い精神性なのかもね。女神もいないから恋もできないし...。
そこから先は牧師さま説との折衷で、(たとえば混沌や空間をかき混ぜて天地を作るのではなく)ことばによってあまねく天地を従わせた、と。
つまりはトップダウン型の神さまなのかも...?(そんなこと言ったら怒られそうですが)
―というあたりで、私のひそかな疑問は一応の解決をみたわけです。
🌟 自己犠牲とは
ですが、ここで締めくくると牧師さまががっかりなさると思うので、この日、一番力をこめて語っておられたおはなしを紹介しておきます。テーマは《自己犠牲》。
" 最も重要な掟 " がふたつあり、そのうちの後者はちょっと有名な《汝自身を愛するように、汝の隣人を愛せよ》という箴言。
「宗教には自己犠牲が必要なこともあるかもしれません。でも、それは、自分の正しさを証明するためではなく、あくまでも隣人愛のためです。ここを間違えてはいけません」
と、牧師さま。
たしかに、自分に固執するあまり自己犠牲的なことを(自分に対して)してしまうことってあるかもね...。
恐怖や罪悪感によって自己犠牲を行う/仕向けられるのではなく、*自発的*な隣人*愛*のためにのみ、自己犠牲的な(ささやかな)いとなみを紡いでいくのが人生なのかもね―などと、昨今世間を騒がせている団体のことも思い浮かべたりしたのでした。
🌟 聖職者もいろいろ...?
牧師さま(奥さまも)は気さくな方で、そのへんを歩いていらっしゃる時は(良い意味で)ふつうの人にしか見えません。
礼拝の時は、みことばを伝える係ですからかしこまっておられ、生真面目で謙虚な雰囲気になります。
これまで歩んでこられた人生をまな板にのせて捌かれる人、のような、受け身の緊張感も垣間見えてきます。それだけ真剣に、ご自身の信ずるところの神と向き合っておられるのでしょう。それを拝見していると、こういう生き方って素敵だなと少し思ったりします。大上段から" 尊いおはなし " をするわけではないため、ご自身の精神修養の場に立ち会わせていただいている感覚です。
話は変わって、その教会のほど近くにあるカトリック教会の神父様について。南ヨーロッパ系とおぼしき初老の、上背のある神父様です。
この教会の中庭を時々通らせてもらうときがあり、幾度か神父様とすれ違ったことも。所用で幼児をつれて歩いていると、附属幼稚園の母子(キリスト教徒ではない家庭がほとんど)に見えたのか、じつに気さくな調子で話しかけてくるのです(日本語ね)。
ですが、私が一人で歩いているところに出くわした神父様。信徒だとお思いになったのでしょう、生まれたときから神父でしたとでもいうような、慈愛に満ちた眼差しで、じっと私をご覧になるのです。
なんと役者な...と舌を巻きましたが・・・♡ 初めてお見かけしていたら、ころっとだまされそう(?)な、極めつけの神父ぶりでした。
もちろんそういう素養は必要なものでしょうし、聖堂からして《雰囲気》たっぷりのカトリック教会。私はもちろんそういった《聖なるもの》が大好きなので、審美や雰囲気で選ぶなら断然、建物から中の人まで、カトリックがいいと思うのです。
でも、実際にご縁があったプロテスタントの教会は、ごくシンプルで飾り気がなく、家庭的。本来の姿(=初期キリスト教)はこれだろうと、居心地良く思う私なのでした。
ところで、カトリックの、聖者などを崇めたりする精神性は、きっとローマの神々やミトラ教など種々の神々をキリスト教が駆逐しながらも、民衆の文化までは消し得なかった名残だと私は考えています。
ちなみに、この交代劇もなかなかにドラマティックで、予言・芸能の神アポローン(ローマ期では太陽神ポイボス・アポロン)が、「我々はイスラエルの若者に駆逐されるだろう」と、イエス・キリストの出現を予言したとかしなかったとか。(藤村シシンさんの本に書いてあったけれど、他の典拠は未確認なので、今のところクエスチョンマーク付きで受け取ってます。)
🌟 牧師夫人にみる信仰心☕️
以前、牧師館にお招きいただいたことがあります。
「汀さん(仮名)は紅茶でしたよね」
と、陶器のほっこりしたカップに紅茶を注いでくださる牧師夫人。
そのとき、お砂糖の代わりに、と、竜舌蘭の樹液からとったアガベ(agave)シロップを勧めてくださいました。常備なさっているとのこと。(マクロビオティックなどでも使われるシロップですね。)
ところが、どうやらそれを、アガペ(agape)シロップと認識されているご様子。
アガペ(アガペー)といえば、古代ギリシャで言われる4つの愛のうちのひとつ《真の愛》であり、キリスト教では《神の無限の愛》を意味します。
「神の愛シロップ」ですよ。それを日々お召し上がりになるわけです♡
紅茶に《アガペシロップ》をひと匙入れてくださり、ふわっと甘くておいしかったのです。でも、非クリスチャンの私にとって、どうがんばってもそれは《アガベシロップ》でしかなく......さすが牧師夫人は違うね...と、けっこう本気で感心してしまうわたくしなのでした(^^ゞ
案外、信仰を持つかどうかの分かれ目は、こういうところに現れるのかもしれません。
🌟 クリスマスを待ちながら〜The Holy City
最後に、今季ずっと聞き続けている曲をご紹介させてください。
2週間ほど前に突然、脳内リフレインが止まらなくなり、かすかな記憶をもとに探し当てました。
クリスマスの曲というわけではないのでしょうが、空気の澄んでくる冬に聞きたくなる曲です。
メロディーラインが秀逸。よろしければお聞きになってみてください(^▽^)
男性と女性を載せましたが、個人的には、ボーイソプラノの歌唱が合うと思います。(公式チャンネルっぽいものが見つけられなかったので、リンクは無しです...)
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