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思い込みについて思う

突然だが、私は、ひどい思い込みの持ち主だ。

まだまだ小学校低学年の頃、テストの文章題に自分の名前と同じ女の子が出てきて(仮に私の名前が花子さんとしよう)、
てっきり自分のことかと思い込み、設問に答えるときも、自分に当てはまるものだけ◯をして、
当てはまらないことは、「私はこんなことはしたことがない」などと答えてしまってエライ低い点数を叩き出したことすらある。

以下のように...。

解答例) 

Q:「上に書かれた、花子さんの今までの年表を見てこたえなさい。花子さんは弟が生まれましたが、花子さんが何歳の時ですか?」

A:「私に弟はいない」

テスト問題に限らず結構いろんなこと。思い込む。

私なんかに彼氏ができるわけがない。
彼氏ができるのは、学校でもイケてる女子だけだからだ。
さらには結婚なんてできるわけがない。
いや、結婚できる気がしない。


私なんかに運動なんてできるわけがない。
だって体育が楽しいと思ったことがない。
だからチャレンジなんてすべきじゃない。


しかもどちらかというと悪い事について激しく思い込む。いい事、得意な事を思い込んだらプラスになってゆくのかもしれないが、できない!向いてない!無理!と思ったらとことん思い込んでしまうタチだ。

自分に自信がないから、なりたいと思う素敵な姿に自分を重ねることに抵抗があるのかもしれないし、それに、逃げているのかもしれない。
できなかったときのことを思いめぐらせて...。
守りに入って、守りすぎて、気が付いたら自分でつけた鎖で自分自身が動けなくなってしまっているように。

そして何より、自分がそうなること、それをしていることを思い描けなかった、想像できなかったからではないか?

いや、想像することを私のアタマやココロが許さなかったからではないか?


でも、少しずつ鎖ははずれつつある。

現に、付き合うこともできたし、さらには結婚することもできた。
「素敵な女子しか彼氏となる素敵な男性はあらわれない」という、今から考えたらありえないような変な幻想ともいえる考えが、どうやら違うようだと霞が晴れるようにわかってきたからだ(書いていて恥ずかしい...)。

運動は、いや、体育は苦手だったけれど、実はベリーダンスやk-popのダンスも習ってみたことがある。心から楽しかった。そして現に、へなちょこではあるもののランニングも楽しんでいる。

やってみたら楽しかったり、強制されなくてやってみたら案外好きだったり。
似合わない、柄でもない、そぐわないよと笑う人もいない。


ありがたいことに、子どもを育てていると、昔の自分がもうひとりそこに現れて、苦手だったり、あるいは楽しかったりしたことがありありと甦る。

それで気づく。

これ、もう一回やってみようかなあ。
もしかしたら、思い込みでできないと思っていたのかも...。


今私が思い込みの鎖を外したいこと。

●試験前に間に合わず泣きながら勉強した世界史は実は面白かったのかもしれない。

●最強にわかりにくい授業をしていた先生のせいにしていた物理は、実は違う角度から勉強しなおしたら面白かったのかもしれない。

●私なんかがえらそうに文章を書いて...と思っているけれど、そんなふうに思わなくてもいいのかもしれない。別にたくさんの評価をもらわなくても、いいのかもしれない。

●めちゃめちゃ人懐こい、社交的な性格ではないから、対人(対患者さん・対医療従事者)の仕事はあまり向いていないのかもしれないと思っていたけれど、それだからこそできることもあるのかもしれない。

●若いころは人からどう思われるか、ということを気にしすぎて、世間や他人に興味のないふりをし、交わらないことで切り抜けてきたけれど、ピンホールみたいな視野からもう少し広げて人や物事を観察してみても、大丈夫かもしれない。想像しているほど、ダメージや被害を受けることは少ないのかもしれない。

●向いていないと思うことも多く、それで避けてきたことも多々あるけれど、とりあえずやってみてもいいかもしれない。

●SNSなどにおいて、びしっと答えをだしたり、わかりやすい明確な意見を発したり、考えを表現することこそが良し、と思っていたけれど、なかなか答えのでないことをああでもない、こうでもない、とぐるぐる考えを巡らせているだけでもいいのかもしれない。考えることをやめなければいいのかもしれない。

●目立ったり注目されたり、評価されることだけがすべてではないのかもしれない。


そろそろ、本当に鎖が固まって外れなくなってしまう前に、ゆるめて外してやらねばならない。

人生であと何本の鎖を外すことができるのだろうか。

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