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『虞美人草 』 ⑧ 夏目漱石

3,853字


十三. (甲野さんと糸子さん)

 甲野さんは宗近君を訪ねたが、留守。
兄はもう帰ります、上がって待っていらしたら、と玄関先で話す甲野さんと糸子さん。
 昨夜は疲れたでしょう、と甲野さん。
 電車だったから疲れませんわ、と糸子さん。
 電車だから疲れるでしょう、人がたくさんいて。何が面白かったですかと甲野さん。
 糸子さんは、お茶屋に入って、小野さんに会ったのが面白かった、と。

十四. (小野さんと宗近、小野さんと孤堂先生)

 小野さんは列車を降りると、ハイカラななりで、屑籠とランプの台を両手に下げ、急ぎ足で歩いている。そこへ、おい、おい、と誰かが何度も呼びかけるが、小野さんは気づかない。宗近君は小野さんの肩を掴んで引き止めた。
 宗近君は、小野さんの歩き方を妙だと指摘する。急いでいるようで、そのくせ地面の上を歩いていないようで、と。小野さんは、言い当てられたと感じる。
 小野さんは、今は宗近君と立ち話をするのも難儀だと思う。一緒に行こうなどと言われると困ると感じている。

p.241 常でさえ宗近君に捕(つら)まるとなんとなく不安である。宗近君と藤尾の関係を知るような知らぬようなまに、自分と藤尾との関係は成り立ってしまった。表向き人の許嫁(いいなずけ)を盗んだほどの罪は犯さぬつもりであるが、宗近君の心は聞かんでも知れている。露骨な人の立居(たちい)振る舞いのおりおりにも、気のあるところはそれと推測ができる。それを裏から壊(こわ)しにかかったとまではゆかぬにしても、事実は宗近君の望みを、われゆえに、永久に鎖(とざ)した分になる。人情としては気の毒である。

『虞美人草』夏目漱石著 角川文庫
昭和30年 初版発行

 小野さんは、散歩ですか、私は少し急ぐから、と宗近君に伝えるが、
一緒に行こう、どっちに行ったっていい、急いだっていい、と答える宗近君。屑籠のことをひとしきり喋った後、宗近君は切り込んできた。

 p.244
 「時に、君は昨夕(ゆうべ)妙な伴(つれ)とイルミネーションを見に行ったね」 
 見物に行ったことはさっき露見(ろけん)してしまった。今さら隠す必要はない。
 「ええ、君らも行ったそうですね」と小野さんは何気なく答えた。甲野さんは見つけても知らぬ顔をしている。藤尾は知らぬ顔をして、しかもぜひともこちらから白状させようとする。宗近君は向こうから正面に質問してくる。小野さんは何気なく答えながら、心のうちになるほどと思った。
 「あれは君のなんだい」
 「少し猛烈ですね。-故(もと)の先生です」
 「あの女は、それじゃ恩師の令嬢だね」
 「まあ、そんなものです」

『虞美人草』夏目漱石著 角川文庫
昭和30年 初版発行

 宗近君に、他人とは見えないと言われ、兄妹に見えますか、と聞いたら、
夫婦さ、と言われる小野さん。書店の側を通りがかったのか、ガラス窓に陳列された書物をしばし眺める二人。

 宗近君が小野さんに、鵜(う)という鳥を知っているか、と尋ねる。鵜は、魚を呑んだと思うと吐いてしまうという。せっかく読むかと思うとすぐに屑籠に入れてしまう学者は本を吐いて暮らしている、という。
 
 面白いぞ、宗近君。
 
 宗近君が言うには、学者は本を読んでは吐いてばかりで何もしない。行動しない、と。ことに文学者はきれいなことを言うばかりで、きれいなことをしない、と。女を誤魔化したり、女房をうっちゃったり。

 (小野さん、何気に攻撃されてる⁉️)
 
 小野さんの宗近評も書いてある。

 p.253
 宗近という男は学問もできない、勉強もしない、詩趣も解しない。あれで将来なんになる気かと不思議に思うことがある。(略)あの態度は自分にはとうていできない態度である。(略)世の中にはできもせぬが、またしたくもないことがある。(略)あの男の前へ出るとなんだか圧迫を受ける。不愉快である。個人の義務は相手に愉快を与えるが専一と思う。宗近は社交の第一要義にも通じておらん。あんな男はただの世の中でも成功はできん。外交官の試験に落第するのはあたりまえである。

『虞美人草』夏目漱石著 角川文庫
昭和30年 初版発行

 今まで、宗近のことを性格が合わない、気の毒だ、情けない、と蔑んだこともあるが、今日ほど羨ましく感じたことはない、と言う。
 
 小野さんは、藤尾に嘘をついたという。小夜子さんとの関係を、五年ぶりに会った恩師の令嬢で、再会したばかりの間柄、そのほかには鳥と魚との関係だにない、と言い切ってしまった、辛抱してきた嘘はとうとうついてしまった。二重の嘘は神も嫌いだと聞く。今日からぜひとも嘘をまことと通用させねばならぬ、と。
 これから恩師のところへ行けば、きっとその二重の嘘をつかなければならないような話を持ちかけられるに違いない、と予感している。

 小野さんは、恩師のお宅に着いた。恩師は具合が悪いようで、ひどい顔をしている。小夜子さんと下女は留守らしい。

 昨夜出かけたのが悪かったようですね、と小野さん。
 ご厄介になった、小夜子も喜んでいた、と先生。
 もう少し暇だと、方々へお供できるのですが、と小野さん。
 いや、そんな心配はちっともいらない。君の忙しいのは、つまりわれわれの幸福(しあわせ)なんだから、と言われて黙る小野さん。

 (小野さん、、、大丈夫?)

激しく咳をする先生。年を取ると意気地がなくなって、何でも若いうちのことだよ、と先生。

p.261
 若いうちのことだと今まで毎度聞いた言葉である。しかし孤堂先生の口から聞いたのは今が初めてである。(略)若いうちうまくやらないと生涯(しょうがい)の損だと思った。
 生涯の損をしてこの先生のように老朽した時の心持ちはさだめて淋(さび)しかろう。よくよくつまらないだろう。しかし恩のある人に済まぬ不義理をして死ぬまで寝醒(ねざ)めが悪いのは、損をした昔を思い出すより鬱陶(うっとう)しいかもしれぬ。いずれにしても若いうちは二度とは来ない。二度と来ない若いうちに極(き)めたことは生涯極まってしまう。(略)将来の運命は藤尾に任せたといってさしつかえない。

『虞美人草』夏目漱石著 角川文庫
昭和30年 初版発行

 孤堂先生は、半日寝込んで、これからのことが心細くなったという。昔は親戚も二、三軒いたが、長い間音信不通にしていたから、今では居所も分からない、と。しかし、側に小野さんがいてくれるのが何よりの頼りだ、と言う。話しながらぞくぞくする、と先生が言うので、小野さんはもうお暇します、と言いかけた。
 まだ話も残っているから、と引き留める先生。

 先生が、小夜のことだがね、内気なたちだし、ハイカラな教育も受けていないのでとうてい気にも入るまいが、と一区切りする。いいえ、どうして、と受けるも、まだ待っているので、気に入らんなんて、そんなことが、あるはずがないですが、とぽつぽつ答える小野さん。

 p.268
 「私がこうして、どうかこうかしているうちはいい。いいがこのとおりの身体(からだ)だから、いつ何時どんなことがないとも限らない。その時が困る。かねての約束はあるし、お前も約束を反故(ほご)にするような軽薄な男ではないから、小夜のことは私がいない後でも世話はしてくれるだろうが……」
 「そりゃもちろんです」と言わなければならない。
 「そこは私も安心している。(略)」

『虞美人草』夏目漱石著 角川文庫
昭和30年 初版発行

 ここで、論文はいつ書けるのか、という話に変わっていく。来月か、再来月か、結婚してからにしたらよかろう、収入は今どのくらいあるのかね、六十円です、下宿をして、ええ、そりゃばかげている。一人で六十円使うのはもったいない。家を持っても楽に暮らせる、と言われて小野さんは黙ってしまう。

p.270
 書物は学者にとって命から二代めである。按摩(あんま)の杖(つえ)と同じく、なくっては世渡りができぬほどにたいせつな道具である。その書物は机の上へ湧いてでも出ることか、なかには人の驚くような奮発をして集めている。先生はそんな費用が、どれくらいかかるかまるで一切空である。したがって、おいそれと簡単な返事ができない。

『虞美人草』夏目漱石著 角川文庫
昭和30年 初版発行

 先生は、共通の知人、浅井は帰ってきたのか、と小野さんに尋ねる。浅井から先生への手紙には、二、三日中に帰京する、とあったそうだ。
 
 小野さんは、今のお話は二、三日待ってくれませんか、と先生に切り出す。二、三日でも、一週間でも、事がはっきりさえすれば安心して待っている、小夜にもそう伝える、と先生。

 小野さんの帰りがけに、再び声をかける先生。
 こうして、東京へ出てきたのは、小夜のことを早く片付けてしまいたいからだ、分かったろうな、と呼び留められた。小野さんは恭しく帽子を脱ぐ。先生の影は消えた。

 ここから、小野さんの独り言が始まる。どうしてこう気が弱いだろう、未来は一体どうなってしまうのだろう、と想像して怖ろしくなっている。
 二、三日、と伝えたのは、浅井を捕まえて、人情に拘泥しない浅井に断ってもらおう、との考えもあった。

 事実だけを外から聞くと、なんでそんなことになったんだろう、
なんではっきり断らないんだろう、って不思議に思えることってたくさんある。ニュースなり、他人の醜聞なり。でも、一つ一つの経緯を、心情とともに追いかけていくと、納得してしまうことってある。
 だから、小説って面白い。だから、小説って必要だ、って思う。

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