上田光俊

【著者が来たがる読書会「読演会」】を主宰する意識ゆるい系ブロガーでブックプレゼンター。…

上田光俊

【著者が来たがる読書会「読演会」】を主宰する意識ゆるい系ブロガーでブックプレゼンター。心屋仁之助さんに師事した思考グセ改善心理カウンセラーで講座受講生は1000人超。40歳を迎えると同時に妻と3人の子供がいる状態で突然リストラされた元アパレル営業マンで自分言語化コンサルタント。

最近の記事

コンプレックスを持つ前の自分に戻る旅

「自分と向き合う」 人間という種は、「自分とは何か」「自分とはどんな人間か」ということを知りたい生き物なのだと思う。 人生で起こるすべてのドラマは、自分を深く知るために”起こされている”と言ってもいいのではないか。 そう思うことがある。 自分以外の他人がいるのも、自分を知るため。 人生で苦難が訪れるのも、自分を知るため。 生まれてから死ぬのも、自分を知るため。 「この自分」 人差し指を鼻の頭に指し示すことで言っていることの「それ」 「それ」とは一体何なのか。 「

    • わたしのことはわたしにしか救えない

      「問題はすべてダミー」 相対性理論で有名な理論物理学者のアインシュタインは、かつてこんなことを言っていました。 「如何なる問題も、それを作り出した時と同じ意識によって解決することはできない」 アインシュタインが本当に言いたかったことかどうかはさておき、僕の勝手な解釈だとこうなります。 「”それ”を問題だと捉えている当事者の意識が変わらなければ、その問題が解決することはない」 どういうことかというと、目の前で起きている事象について、「それを問題だ」と捉えている「その意

      • 「KYOMU 虚無」に飲み込まれた先にあるもの

        夢を夢と知りつつ見る夢と、夢を現実と思い込んだまま見る夢と、果たしてどちらが正気だと言えるでしょうか。 いずれにせよ、人は「夢を見ている」ことに違いはありません。 人は夢を見ているのです。 言い方を変えましょう。 人は何者かに「見られている」夢かもしれないんです。 古代中国の思想家莊子の『胡蝶の夢』をご存知でしょうか? 有名な寓話なので、一度は耳にしたことがあると思います。 莊子が本体であるのか、それとも蝶の方が本体であるのか、どちらが真実かを証明することはできません

        • 「人間関係」再構築の決定版的本

          「目の前の人は自分」 心理学ではよく言われることのひとつがこれです。 「目の前の人は自分」 ということは、ありとあらゆる人間関係っていうのは、極論を言うと「自分との関係」だと言えるのではないかと思います。 自分との関係はどうなっているのか。 自分とどうつながっているのか。 それが反映されているのが外側の「人間関係」であって、それを見れば一目瞭然。 軽く扱われているのであれば、自分で自分を「その程度の人間だ」として軽く扱っていて、とても大事にされているのであれば、

        コンプレックスを持つ前の自分に戻る旅

          神はどこにもいない。

          神社に神さまはいません。 いるのは「神社に神さまがいると思っている人間」だけです。 「神さまがいる”ということにしている”人」と言ってもいいかもしれません。 とにかく、神社には神さまはいません。 神社だけじゃなくて、どこにいっても神さまはいません。 宇宙のどこかに全知全能の神なんていないのです。 いると思っている人に「神さまはいない」ということを押し付けたいわけじゃないので、これはあくまで個人的な意見だと思っていただければと思います。 僕は何も、誰かと「神がいるかいない

          神はどこにもいない。

          彼の声が聞けてよかった

          歩きながら、一人で話している人をたまに見かける。 電話はしていない。 明らかに独り言だ。 一人で「あーでもない、こーでもない」とぶつぶつと言葉を口から漏らしている。 昔は、そういう人を見て「目を合わせてはいけない」みたいな態度でやり過ごしてきたけれど、今は少し話しを聞いてみてもいいかなと思えるから不思議だ。 かなりの高確率でケガをすることになるとは思うけど。 歩きながら、人目を気にせず、はっきりと何を言っているのかを聞き取れるレベルで話している人の中には、怒ってい

          彼の声が聞けてよかった

          消えたい衝動

          存在ごと消えてしまいたくなる時がたまにある。 たまには大げさか。 よくある。 しょっちゅう思っている。 幸いなことに、僕がどう思っていようが、実際に消えようが、この世界は何事もなかったかのように存在し続けてくれる。 実にありがたい存在だ。 自分のことは信用できていないけれど、何故だか、この世界の有り様だけは疑いなく信じ切っている。 不思議なものだ。 おそらく心身のバランスによる影響が大きいとは思うが、時折僕は、突然消えてしまいたくなる衝動に駆られることがある。

          消えたい衝動

          喜ばしきことかな、太る

          太った。 太ったというよりも、デブった。 太るとデブるとでは、ニュアンスがだいぶ違う。 どれくらい違うかって言ったら、水野美紀と水野真紀くらい違う。 別人なんだ。 どちらがどちらかとは言えないが、とにかく違うのだ。 僕は太った。 たしかに太ったんだが、どちらかというと、デブったに近い。 僕は今、自分史上最高にデブってる。 ああ、なんてことだ。 なんで、こんなことになってしまったのだ。 僕には妻がいる。 世界一大切な妻。 その妻が、昨年秋から関西初出店となる近所

          喜ばしきことかな、太る

          いい加減、はじめます。

          「なんでnoteやらないの?」 なんで? って言われても……。 なんででしょうか? 自分でもよくわかりません。 いきなり、そんなことを言われても。 じゃあ、なんですか、逆に聞きますけども、noteっていうのものは日本国民全員が、すべからくしているものなんですかと問いたい。 「なんで、noteやらないの?」 答えは明白。 「たまたま」ですよ。 僕だって、今まで何度か「noteやってみよう」と思ったことはあったけれど、特に差し当たってnoteで書く理由がなかったんだか

          いい加減、はじめます。