消えたい衝動
存在ごと消えてしまいたくなる時がたまにある。
たまには大げさか。
よくある。
しょっちゅう思っている。
幸いなことに、僕がどう思っていようが、実際に消えようが、この世界は何事もなかったかのように存在し続けてくれる。
実にありがたい存在だ。
自分のことは信用できていないけれど、何故だか、この世界の有り様だけは疑いなく信じ切っている。
不思議なものだ。
おそらく心身のバランスによる影響が大きいとは思うが、時折僕は、突然消えてしまいたくなる衝動に駆られることがある。
全部なかったことにして、リセットしてしまいたくなるのだ。
自分がしていること、してきたこと、過去の自分や、自分を取り巻く環境に、うんざりする。
自分はこの世界にとって、害悪でしかないと感じて消えたくなるのだ。
いなくてもいい。
いてもいなくてもいいのなら、いてもいいという気持ちにもなるけれど、「いない方がいい」にピサの斜塔以上に気持ちが傾いている。
そのまま倒れてもおかしくない絶妙な角度だ。
きっと他の人だって、自分と似たようなものかもしれないけれど、この状態になると自分以外の他人全員がすごい人に見えてくるから余計に落ちる。
少なくとも、自分よりは優れて見えてしまうのだ。
(実際そうなんだろうとも思うし)
お荷物。
要らない存在。
いてもいなくても、というよりは、いない方がいい。
その病は一体いつから始まったんだろう?
僕は中学生の頃に、軽いいじめというか、少し陰湿な嫌がらせにあっていた時期がある。
きっと僕が何かをしたんだと思う。
相手を嫌な気持ちにさせる言動をしていたんだろう。
小学生の頃は、合わなければ一緒に遊ばなくてもいいし、それが違うクラスだったとしたら、ほとんど関わることもないから実に平和なものだった。
それが、何故か中学生ともなると、自分の気に入らないやつは片っ端から排除していこうという活動に勤しむ人たちが出てくる。
大体、そういう人たちは、体が大きくて力が強い、声の大きな人たちだ。
そういう人たちが徒党を組んだら、僕のような弱小者には太刀打ちできない。
学校の玄関口で、後ろから肩にぶつかられて倒れそうになる。
球技大会では、パスを出すフリをして、わざとボールをぶつけてくる。
聞こえるか聞こえないかくらいの声で、「あいつ、消えろ」的なことを言ってくる。
「的なことを」というのは、実際に何を言われていたかは覚えていないからで、本当は何も言われていないのかもしれないけれど、何か嫌なことを言われたという印象だけは強く残っているということ。
他にも色々と、声の大きな人たちからは、やたらと目をつけられて排除されてきたように思う。
その頃からだろうか。
いない方がいいんだと思うようになったのは。
哀しかったのは、それまで一緒に遊んでいた友達までもが、”あちら側”に付いた時だ。
(あー、そっちにいくんだ……)という風に無感情で思った記憶がある。
定かではないけれど。
ものすごく自然に彼らの行動を受け入れていた自分がいた。
その状態は、中学3年間にとどまらず、結局進学した高校でもそれは続き、計6年間、僕は感情を閉ざすことになる。
計6年間と言ったけれど、それ以降も感情を豊かに表現できているかといったら、全く違う。
感情表現を忘れてしまったかのように、それ以降の僕は無表情で無愛想な、自らコミュニケーションを断つタイプの人間になってしまった。
それではいけないと何度も思った。
社会人になってからは、尚更そう思って、できるだけ社会に適応できるように自分を装ってきたように思う。
幾分、そういう思考パターンや行動様式からは抜け出せたように思うけれども、一度付いたクセをいうのは、ふとした瞬間に再燃してしまうようで、気が付いたら、「自分はいない方がいいんだ」に向かって伊之助と競い合うかのように猪突猛進してしまっていたりする。
迷惑をかけてなければいいのだけど。
人は迷惑をかけずには生きられない生き物だとは思うし、もし仮に、目の前に困っている人がいて、自分一人でなんとかしようとしていたとしたら、「水くさいじゃないか」と思う自分がいる。
でも。
自分が迷惑をかけてしまう立場になった途端に、それだけは避けたいと思う自分がいる。
迷惑をかけられずにはいられないけれど、積極的に迷惑をかけたいとは思わないものなのだ。
だったら、いっそ消えた方がいい。
違う場所で、できるだけ人に迷惑をかけないように、ひっそりと誰からも気づかれないように生きていたい。
この場から去りたい。
そんな思いを抱えながら、なんとか目の前の現実と折り合いをつけて、今もこうして生きている。
それが実際のところだ。
去りたいけど去れない。
消えたいけど消えられない。
大人になって、40歳も超えたら、いろんなものを手に入れて、何者かになっていると思っていた。
でも違った。
実際は、何も手に入れず、何者にもなれない、ただの自分がずっとそこにいるだけだった。
いやいや、こんなんでいいんだろうか。
こんな自分で、この社会にいてもいいんだろうか。
全然、そうは思えない。
いない方がなにかといいと思うよ。
と、そこまで考えて、あることをふと思った。
たしかにこの世界は、自分一人がいなくなったところで、何の影響もない。
今日、僕がいなくなったとしても、何も変わることなく明日は続いていく。
それは僕だけに限らず、どんなに有名な人だって同じ。
「この世界にとって大きな損失だ」と言われるような人が、たとえこの世を去ったとしても、何も変わらず明日は来る。
結局のところ、誰も困らない。
この世界に大きな損失を与えるように思える人がいなくなっても、必ず誰かが、そこの場所を埋めてくれる。
それで世界は回っていく。
だとしたら、逆に、たとえ「いない方がいい」存在だったとしても、この世界には、何の影響もないじゃないか。
「いない方がいい」自分がいたとしても、この世界は何も変わらず、ずっと続いていく。
そんなことには影響されずに、たくましくこの世界は存在し続けてくれる。
実にありがたい存在だ。
自分のことは信用できてないのに、この世界の有り様だけは、疑いもなく信じ切っている。
僕は、この世界にいてもいなくてもいい。
でも。
だからこそ。
この世界が大丈夫なら、いなくてもいい僕が、もう少しこの世界にとどまったところで、何の影響もないのだから、もう少しだけ、いてもいいんじゃないかな。
そう思って、窓を開けてみたら、空は曇天だった。
いやさ、こういう時って、気持ちがいいくらい晴天だったりするものじゃない?
気持ちが落ちていても、見上げたら、どこまでも高く青く、爽やかな空だったりすると思うんだけどなぁ。
曇天て。
それが曇天て。
この世界は実にたくましいものだ。
この曇天の下で、今日も僕は文章を書いている。
何者でもない物書き 上田光俊
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