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神はどこにもいない。

神社に神さまはいません。
いるのは「神社に神さまがいると思っている人間」だけです。

「神さまがいる”ということにしている”人」と言ってもいいかもしれません。
とにかく、神社には神さまはいません。

神社だけじゃなくて、どこにいっても神さまはいません。
宇宙のどこかに全知全能の神なんていないのです。

いると思っている人に「神さまはいない」ということを押し付けたいわけじゃないので、これはあくまで個人的な意見だと思っていただければと思います。
僕は何も、誰かと「神がいるかいないか論議」をしたいわけじゃないので。興味がない、あるいは、「コイツ何もわかってねえな」と思ったら華麗にスルーしてください。


僕は、神社だろうとどこだろうと、どこにも「神さま」はいないと思っています。

まず、何を持って「神さま」とするのかによっても、考えは変わってはくると思いますが、ただなんとなく漠然と「高度な知性を持っている知的生命体」的な存在はいないと思っています。

何もいません。
どこにもいません。

そういうエネルギー体で、我々人間を微笑ましく、時には試練を与え、また時には手を差し伸べてくれるような慈悲深い存在なんてものは、この宇宙のどこを探してもいないと思います。

いてもいいんですけどね。

いていただく分には全くもってモウマンタイなんですが、僕はいないと思っているというだけの話です。

似たような話で、守護霊さまもいないと思います。

なんていうかその……

どこまで人間を中心にものごとを考えてるんだろうなと思うんですよ。

神さまがいたとしてですよ、人間ばっかりに構っていられないと思いますし、守護霊さまに関しても、人間を守護するという発想自体が、生きている人間中心にものごとを考えすぎだと思うんです。

ある意味、自分にとっては自分が宇宙の中心であることに間違いないですが、全宇宙という視点に立てば、人間なんてものすごくちっぽけな存在というか、なんでお主の都合ばかりでこの宇宙全部を回していかないといけないんだと思うわけです。

つまり、神さまや守護霊さまなんてものを持ち出してきて守ってもらおうとすること自体が、とても傲慢な考えだと思うんですね。

人間のために神さまや守護霊さまが存在しているっていう考え方じゃないですか。

もし仮に、本当にそんな存在がいたとしても、生きている人間のためだけに存在するわけがないと僕は思うんです。

そういう意味では、神社の神さまであろうが守護霊さまであろうが、本当はそんなものはいないという前提の上で「人間がイマジネーションによって創り出したもの」だと僕は思っています。


神さまも守護霊さまも、人間が創ったんです。
自分たちにとって都合の良いように。

別に人間批判をしているわけではないことはご承知おきを。

人間が先で、神さまは後なんです。

だから、神さまはいません。
どこにもいません。
神社に行っても、そこには何もいないんです。

じゃあ、どこにいるのか?

「それ」を持ち出してきたら、全部そうなっちまうだろが! というご批判が来ることを想定した上で、この際なんで、言ってしまいますが、「集合意識」にいます。

「いる」という表現は適切ではないかもですね。
「あるということにしている」とでもしておきましょう。
「空間全体にあまねく存在している」でもいいです。


人がイマジネーションによって、神さまというものを想像し、それが、何千年という人間の営みの中で、個人の潜在意識に浸透していって、さらにその奥にある(とされている)集合意識の中に定着するようになっていったんだと僕は思います。

「神さま」は存在ではありません。
「働き」です。
森羅万象の営みのことだと僕は思います。

知らないですけど、おそらく古代の日本人、それこそ縄文時代くらいの人たちはそのことを感覚的に知っていたのではないかと思っています。

縄文人だけではなく、ネイティブアメリカンの人たちやアボリジニーの人たちもそうだったと勝手に想像しています。

日本の神々は「八百万の神々」と言います。
古代の日本人たちは、何を見てもそこに「神」を感じ取っていたんです。
自然崇拝と言いますか、自然の営みすべてにおいて「神性」を感じていた。
ということは、すでに「神」を知っていたということになりますね。

なぜ、自然の営みを見て、そこに「神」を感じることができたのか。
それは、先に「神」を知っていたからです。
「神」というものを知らないのに、そこに「神」を感じることはできません。
そもそも知らないんだから。

知らないものを「ここに神さまがいる!!」とはならないでしょう。

そうやって、自然の営み、森羅万象の働きを見て、そこに「神」を感じていたのが、古代の人たちであり、自身に「神」を内包させていた存在だったのではないでしょうか。
後に「神」という言葉を使っただけです。


繰り返しますが、僕は何も「神社の神さま」を全否定しているわけではありません。
ましてや、それを有難がっている人たちを否定したいわけでもありません。

むしろ、心の奥底では、今でもそれを知っているのではないかとさえ思っています。
特に、日本に住んでいる人たちは。

なぜなら、日本の人たちって、昔っから、特定の宗教というものにとらわれなかった人たちだと思うからです。
神社に行けば、日本の神さまを思い、お寺に行けば仏様を思う。
クリスチャンでもないのに、キリストの生誕を祝ったりするし、ハロウィンに騒いだりする。
インドの神さま「ガネーシャ」を関西弁で物語の中に登場されてしまったりもするわけです。

その感性というか、発想自体が、そもそも「神さまはどこにもいない」「むしろ、自分たちの中にいる」ということを知っていることにつながるのではないと思います。
特定の宗教、神に固執してないんで。

すべては、「集合意識」にあります。
というか、この宇宙そのものが「集合意識」の働き・営みなんです。

顕在意識、潜在意識、集合意識、宇宙意識、超意識と言い方は様々ですし、別になんでもいいんですけど、つまりは「意識」なんです。

「意識」しかないんです。

それ以外には何も「ない」。

すべてが「意識」の中にしかないんで、「意識」ってことは「内側」であり、境界線がない世界、つまり「ワンネス」ってことになります。

「ワンネス」って言葉を持ち出すと途端にスピ度数が上がる感じがしますが、リアリティーの世界としては「ワンネス」でしかないんですよね。


「意識」の中には境界線がないので、ここからここまでが「私」で、ここから先が「あなた」です、とは言えないじゃないですか。

となるとですよ、「意識」の中ですべてがつながっているとはいえ、金太郎飴的な感じで、どこをとっても全部同じということではなく、それぞれの部分には特色があると思うんです。

「違い」がある。

海の波をたとえに使うとわかりやすいんですけど、さざなみであろうと、ビックウェーブであろうと、「海水」ということでは同じですよね。
でも、日本海に現れた小さな波なのか、それともオーストラリア沖でサーファーたちが待ち望んでいたビックウェーブの到来なのかでは、「形」が全く違う。
力も強さも濃度も何もかもが全部違うんです。


すべてはひとつづきであることに違いはありませんが、すべてにおいて「違う」とも言えるわけです。

そうすると、本来「形」のないものを、「『それ』ではなく『これ』」と特定するには、なにか目印があった方が認識しやすいですよね。

日本海の小さな波も、オーストラリア沖で発生したビックウェーブも、基本的には同じものなんですけど、性質的には「違い」があるわけで。
「日本海のじゃなくて、オーストラリア沖のやつ」と特定するには、何らかの手段が必要になります。

その手段のひとつが「言葉」です。

「言葉」によって、「『それ』ではなく『これ』」が認識できるんです。

「意識」の中だと尚更、特定させるのは難しいと思うんで、そのために「言葉」を使うんです。

ある場所を特定するために「言葉」を使う。

一体、何の話をしているかというと、日本の神さまの名前ってありますよね。

その名前って、実は名前じゃなくって、「集合意識」の中にある特定の部分を認識するために、便宜上作ったものじゃないかと僕は思っているんですね。

どういうことかというと、たとえば、日本の神さまにはそれぞれに「ご利益」ってものがありますよね。
縁結びの神さまとか、学問の神さまとか、家内安全だとか、それを「意識」の中で認識するために「言葉」を使った。
それが「名前」です。

神さまの名前って「サクセスコード」みたいなものだと思うんです。

特定の神さまの名前を使うことによって「意識」の中で、「それ」を認識することができる。
「そこ」に意識を向けることができるんです。

「オオクニヌシさん」と言えば、「縁結び」を思える。

そうやって、特定の名前を付けることで、意識を「そこ」に向けるようにしていたんじゃないかと思います。

それが「神さまの名前」です。

だから、神さまはいないんです。
自分自身の中にある広大無辺な意識の中のある特定の場所を認識するために付けたのが「神さまの名前」だったんじゃないかと思います。

はじめは、そのために言葉を使って「名前」を付けた。
それがずっと受け継がれていって、「本当に」神さまがいるかのような認識として広まっていって、どこそこの神社には「〇〇の神さま」がいる、みたいな感じで伝えられてきたんじゃないかと。

「意識」の中には、名前も形も何もないので、それだと何がなんだかわからないんで、それを外側の世界に具現化させたものが、「神さまの名前」であり「神社という場所」なんだと僕は思っています。

つまり、「神社」は神さまがいる場所ではなくて、自分自身の中の集合意識の深い部分にアクセスするための場所なんです。

普段の生活の中で、常に「それ」を感じられるのであれば、別に「神社」に行くなくても全然大丈夫です。

でも、なかなか難しいというか、無理ですよね。

特に今は情報過多の時代なんで、何もしてなくても膨大な情報が勝手に自分の中に入ってきてしまいます。
そうなると、一人静かに、自分の中にある「神性」に意識を向けることができなくて、毎日に忙殺されてしまいます。

そこから離れて、少しでも距離を取って俯瞰するためには、物理的にも、普段とは違う場所に行くと、意識が切り替わりやすくなるんです。

それが「神社という場所」であり、システムなんじゃないでしょうか。

そう考えると、ほんとによくできてるシステムだなと思うんですよね、日本の「神社」って。


 

そうやって考えると、全部「自分」でやってるんです。
「自分」というか、「意識の中で」ですね。

当たり前な話にはなりますけどね。
意識しかないんでね。

だから、「神さま」はいません。
どこにもいません。
「神社にいる」というわけでないんです。

「いる」というか「ある」のは、集合意識と呼ばれるくらい意識の深い層に、です。

顕在意識のその下にある個人の潜在意識から、それよりももっと奥深いところにある集合意識に「ある」と思います。

もう何千年も前から、日本には八百万の神々がいて、日本の土地には神社があって、そのシステムに則って、これまで人々の幸せを願ってきた。
その営みが、日本人という集合意識には埋め込まれているんで、たとえ神社に神さまがいなくても、神社に行くと、人生が好転したという人が出てくるんです。


本当は「自分」でやっているんです。
奇跡を起こしたのは、「神さま」ではなくて、「自分」なんです。

でも、普段の意識状態だと、そんなのよくわからないでしょうし、そのつもりもないしで。
結局は「神さま」の仕業ということにしているだけなんだと思うんです。


それが悪いというわけではないんで、それで全然いいんですけども。

僕たちはもうそろそろ、神にすがることで、自分たちの力を自分以外の何かに明け渡してしまうことから卒業する時期に来ているのではないでしょうか。

全部、自分でできます。
というか、これまでもずっと自分でなんとかしてきたんです。

神さまがいるということにして、それを信仰することは悪いことではないですが、その前に「自分自身」を信仰してみたらいかがでしょうか?

どうやってやるかは自分で考えましょう。
答えなんて、そもそもないんだし。

架空の存在(虚像)を自ら創り上げて、そのストーリーに埋没していくところから目を覚ましていくタイミングが来ているような気がするんですよね。

ただの気の所為かもしれませんけどね。

何者でもない物書き 上田光俊でした。


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