「KYOMU 虚無」に飲み込まれた先にあるもの
夢を夢と知りつつ見る夢と、夢を現実と思い込んだまま見る夢と、果たしてどちらが正気だと言えるでしょうか。
いずれにせよ、人は「夢を見ている」ことに違いはありません。
人は夢を見ているのです。
言い方を変えましょう。
人は何者かに「見られている」夢かもしれないんです。
古代中国の思想家莊子の『胡蝶の夢』をご存知でしょうか?
有名な寓話なので、一度は耳にしたことがあると思います。
莊子が本体であるのか、それとも蝶の方が本体であるのか、どちらが真実かを証明することはできません。
これはもう、どうしたってできないんです。
そもそも、今自分のことを「私」だと思っているその現象自体が夢の中だとしたら?
どうやってそれを「現実だ」と証明すればいいのでしょうか。
では、「夢の中」にいて、それを「夢だ」と見抜くには?
「夢から醒める」という言い方があります。
あれは一体、「何が」夢から醒めるのでしょうか?
「私」が?
その「私」と言っている「それ」は、果たして莊子の方なのでしょうか? それとも「蝶」の方なのでしょうか?
あるいは、そのどちらでもないのでしょうか?
古代インドに、かつてヤージュニャヴァルキヤという哲人がいました。
その人はこう言っています。
「どうやって認識するものを認識できるであろうか?」
言い換えると、「認識するものは認識できない」という意味です。
それをサルトルは『存在と無』の中で、このように表現しています。
これをもう少し噛み砕いて言うと、「認識するもの」を「認識した」時点で、それは「認識されるもの」になり、「認識するもの」ではなくなるがゆえに、それをどこまで繰り返したとしても「認識するもの」は絶対に「認識できず」、「~に非ず」「できない」という言い方でしか言えないという意味です。
「私」を 「私だ」と思っている、その「私」と、「私だ」と”思われている”「私」は同列では語れないんです。
「私」は「認識するもの」で、「私だ」と思われている「私」は「認識されるもの」だからです。
全くの別物なんですね。
では、「私」を「私だ」と思っているその「私」って一体何? という話になります。
僕は、これを考えるとちょっと怖くなります。
「自分のことを『私』という神、コイツはいったい何なんだ!」と錯乱状態に陥ったのはバタイユという人ですが、なんとなくその感覚がわかるような気がします。
「私」を「私だ」と言っているところの「それ」。
確実に「認識」が起きているにもかかわらず、「それ」自体を認識することができないこの仕組みが、なんだか考えるだけでゾッとすることがあるんです。
そして、もしかしたらですけど、「夢から醒める」という言い方で表現される「醒める者」とは、莊子の方でも、蝶の方でも、「私だ」と思われている「私」でもない、「認識するもの」の方なのかもしれません。
「夢を見ている」のは「認識するもの」で、その「認識するもの」に見られているのが我々「人」なんだと思います。
つまり、あなたも「誰か」に見られている夢であり、その自分を「私だ」と思っている状態、即ち「夢を現実と思い込んだまま」夢を見続けている状態と言えるのではないでしょうか。
この構造を、そのまま説明するのではなく、とても冷静に、ある意味ドライに、そしてスピリチュアルノベルという形の表現で、できうる限りに、真理に肉薄した作品に触れることができましたので、ご紹介します。
『KYOMU 虚無 仮想現実を行き交う破壊と再生のスピリチュアルノベル』
大島ケンスケさん
スピリチュアルノベルとありますが、それがどういうものなのかは、受け取る側の印象に差が出てくることとは思いますが、僕個人的にはもう、めちゃくちゃ完成度の高いエンタメSFミステリー作品であり。今すぐにでも映像化されてもおかしくはないレベルだと感じました。
いやいや、これ、どうやって書いたんですか?
そのストーリーもさることながら、この物語の世界観とか、キャラクター設定とか、もうなんていうか、想像をはるかに超えてきた作品で驚きました。
個人的には、村上春樹作品の中で僕が最も好きな『1Q84』や、
中村文則さんの『教団X』
これから氷河期に突入するという段階で、人々が「Kyu-Kyoku」に組み込まれる直前の東京を描いた、退廃した感じが『AKIRA』の世界観のようでもあり、
世界的大ヒットハリウッド映画『マトリックス』や
『インセプション』
かなり古い作品にはなりますが、SF小説の傑作『星を継ぐもの』
こういった作品群を彷彿とさせ、一度で五度も六度も楽しめて、且つ、とても深みのある物語だということに感嘆しました。
この物語は、2036年と2221年が舞台となり、交互に場面が変わりながらストーリーが展開していきます。
そういうところも村上春樹作品っぽくて好き。
本のそでにはこうあります。
大まかなストーリー展開は、この通りなのですが、そこに「仮想現実」「メタバース」「マルチバース」「パラレルワールド」「パンデミック」「未知のウィルス」「搾取システム」「戦争」「貧困」「格差社会」「食品添加物」「宗教による支配構造」「昆虫食」「マイナカード」「マイクロチップ」等など、そういった現代社会でも起きていることとリンクさせながら描かれている点は、本当に脱帽と言わざるを得ないと思いました。
ストーリーなのに、圧倒的なリアリティーがある。
この地球の近未来って、本当にこんな世界観になっているのではないかとさえ思いました。
この物語の主人公である2036年に生きる風次と、2221年に生きるフータには、共通して同じことが起きています。
それは「夢を見ている」ということです。
それが「夢」なのか、それとも「現実」なのか、わからなくなるくらいリアリティーのある「夢」をよく見ているんです。
二人とも、です。
そして、「夢」を通じて二人はつながっています。
「なにかがおかしい……」
「どこか変だ」
「違和感がある」
お互いにそう感じながら、自分達の現実を生き、「夢」を通じて「向こう側の世界」を知る。
果たして、それは「夢」なのか、あるいは「現実」なのか。
どちらが「夢」を見ている側で、どちらが「夢」を”見られている側”なのか。
そして「KYOMU 虚無」とは一体……?
その謎が明かされる時、この言葉の真意を理解することができるでしょう。
「KYOMUの中に消えれば、本当の自分に目醒める。だから恐れるな」
この本は「スピリチュアルノベル」というジャンル(?)になるそうです。
しかし昨今、「スピリチュアル」という言葉ほど、それが指し示す意味合いが多様化しているものも珍しいと思います。
以前からある「ニューエイジ思想」と呼ばれるようなものから、「悟り」系や、引き寄せの法則に宇宙の法則、思考は現実化するといった願望実現系のもの、神社や神道等の日本古来からあるもの、はたまた龍神や精霊、守護霊といった目に見えない存在のことや、オカルト、陰謀論系にまで及ぶ、実に様々なジャンルを包含する言葉となっています。
個人的には、このように感じていて、だからこそ、できればあまり使いたくはない言葉になっているんですね。
そして、そういった様々なジャンルに共通する事柄として、僕は「夢を見ている」状態だということが言えるのではないかと思っています。
どういうことかというと、「ない」ものを「ある」と言い、「ある」ものを「ない」と言う幻想を見させている。
つまり、眠りを深めてしまうものが大勢を占めているということなんです。
別に正解があるわけではありませんが、僕が思う「スピリチュアル」って、「リアリティーの世界」「夢から醒めた状態」のことを指し示す言葉だと思っていて、「ない」ものは「ない」と言い、「ある」ものは「ある」と言う、実にシンプルで当たり前のことだと考えています。
それと照らし合わせると、昨今使われている「スピリチュアル」という言葉って、その真反対、つまり「夢を見させる」「眠りを深める」方向性のものがとても多いように感じます。
たしかに間違いではないのかもしれないけれど、「あなたにはまだ眠っている能力があります」「あなたは選ばれた存在です」「あなたは特別な使命を持ってこの地球に降りてきた魂なのです」等という、証明のしようがないことを、さも真実かのように謳って、喧伝して、人を騙す集める、そういった手法がはびこっているように感じて仕方がありません。
特に「特別感をもたせる」ものには注意が必要だと思います。
もし、あなたの存在が「特別」だと言うのなら、あなたの周りにいる人たちも「特別な存在」です。
ということは、誰もが「特別な存在」となり、最終的には、横並びとなります。
人類みな同じ、なんです。
本来、良いも悪いも、優劣もないんです。
「あなたは特別」「選ばれた存在」、そういった表現に誘われて行った先に待ち受けているのは、「夢のある世界」ではなく、さらに頑丈なヒエラルキー構造社会です。
どんなにあなたが特別でも、もっと特別な人がいます。
どんなにあなたが優れていても、もっと優れた人がいます。
たとえあなたが選ばれた存在だとしても、あなたの前にはもっと力を持った存在が現れるんです。
それを言わずに、つまり「ある」ものを「ない」と言い、特別だとか、選ばれたとかは「ない」にもかかわらず、それは「ある」と言う。
これを「幻想」を見させていると言わずして何と言うのでしょうか。
そういう意味で、「スピリチュアル」という言葉が使われているところには「夢を見させる」ことによって「眠りを深める」ものばかりが持て囃されているような気がします。
すべてではない。
人はずっと「夢を見ている」状態です。
それも「夢を夢と知らずに見る夢」をです。
夢を現実だと思い込んで見ている夢なんです。
そこから抜けて「夢を夢だと見抜いた」上で、じゃあその夢の中でどんな冒険をしてみようかと思い巡らすことができる状態こそが「夢から醒めた」と言えるのではないかと思います。
そのような幻想、夢、思い込み、常識、親や社会から与えられた価値観、慣習、思考クセ、刷り込まれた道徳観、そして洗脳。
それらをすべて飲み込み、「無」に消し去る。
それが「KYOMU 虚無」であり、その先に、本当の自分、つまり、「夢から醒めた」自分がいるリアリティーの世界が待ち受けているのではないかと感じました。
この物語に触れることで、それが頭ではなく体感で「わかる」のではないかと思います。
ぜひ、それを体験してみてください。
物語は「体験」です。
2023年に生きるあなたが、2036年の風次に、そして、2221年のフータとなって『KYOMU 虚無』の世界を体験してみてください。
それを体験したあなたにはわかるはずです。
「現実だと思っていた”これ”が実は夢で、私は、誰かに夢のなかで見られている存在だった」のだと。
それにしても、「スピリチュアル」と語る人たちの中で、ここまで本質を突いた内容を物語の中に溶け込ませて表現することができる人を、僕はケンスケさん以外に知りません。
唯一無二じゃないかな。
違った作風で、この作品はとても楽しめましたが。
それともまた違う、本格的なSFミステリー作品と言ってもいいと思いますし、それこそ、映像化されるに値する完成度の高さだと思いました。
あ、アニメの方がいいかな。
いやでも、やっぱり「小説」という形だからこそ表現できるものがたくさんあったと思うので、まずは実際に手に取って読んでみることを強くオススメいたす。
これは「目醒めの書」だ。
何者でもない物書き 上田光俊
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