社会人2年目:海外駐在時代のお話①はじめに

社会人2年目になった私は地方支店から海外現地法人へ異動することになります。海外駐在時代のお話に関しては、下記5つの章に分けてご紹介していきます。非常に濃い内容となりますので少し長くなりますが、お付き合いください。今回は①はじめに、となります。

<社会人2年目:海外駐在時代のお話>
①はじめに: 海外勤務概要
 →赴任地や仕事の概要のご紹介
②前編:仕事内容
→具体的な仕事内容(事例)のご紹介
③番外編:海外で働くということ(私生活編)
 →私生活で大変だった経験のご紹介
④後編:海外で働くということ(業務編)
→文化背景の異なる外国人と働くことの大変さや、やりがいのご紹介
⑤終わりに:海外駐在で学んだこと
 →海外駐在の1年間で得た学びのご紹介


社会人2年目の夏のある日、私は支店長より辞令を言い渡されます。「〇〇(私の名前)、タイ現地法人への出向を命ずる。」

この辞令を聞いた時、私は贅沢なことに、まず残念な気持ちになりました。なぜなら駐在先は私が希望していた国では無かったからです。私の希望していた国は「アメリカ」でした。なぜアメリカを希望していたかと言うと、前職のIT業界で世界で戦うためには、北米企業と戦い打ち勝つ必要があると考えていたからです。当時はGAFAという通称はまだ一般的では無かったですが、北米企業の成長力と強力さは誰の目にも明らかでした。その為若いうちにまずは北米に行って最先端の技術やビジネスを体感したいと考え、アメリカ西海岸、そう、シリコンバレー近くの拠点への配属を希望していました。北米の外資系企業のライバル相手に、外資系企業のお客様を奪う。これが出来なければ将来的に世界で勝ち抜くことはできない、そう当時の私は考え、アメリカで挑戦したいと人事にこの熱い想いを何度も伝えていました。

しかし結果としては、配属先はアジアの新興国。日系企業が数多く進出していました。これが意味するところは、アジアに進出する、或いは既に進出している日系企業のお客様を支えるためのビジネスが主眼になるということです。

どのように出向先が決まったか詳細は分かりません。人事面談の最中に度々アジアはどうか、という話もあったので少し覚悟はしていました。ただ新規開拓として地方支店でキャリアをスタートした私としては、既に多くの日系企業が進出しており、海外現地法人としても歴史の古い拠点への出向は、ビジネスとしてはあまり面白くないのではないかと考えていました。

しかし、よくよく話を聞くと面白そうな点もありました。それはタイ現地法人が、ミャンマー、カンボジア、ラオスという、いわゆるメコン経済圏・タイプラスワンと言われる経済的に発展しようとしている国々も管轄に置いていたことでした。
特にミャンマーに関しては、数年前に市場が開放され、多くの外資、特に日系企業が進出を開始していた時期でした。そしてまさに私のタイ駐在中にそれらの国々への進出を図るお客様から数多くのご相談をいただき、実際にビジネスとしてそれらの国々とも関わることになります。そしてタイ現地法人そのものも、こういった時勢の影響もあり、数多くのお客様を抱え、収益率は年約20%成長という、大企業の海外拠点としては異例の成長率を遂げている勢い溢れる拠点でした。

真夏の暑い日に(タイは年中暑いですが)、私はタイ王国バンコクのスワンナプーム国際空港に降り立ちます。タイ現地法人はバンコクの中心街にありました。バンコクの街やそこでの生活については③番外編で触れたいと思いますので、ここでは割愛します。

配属初日、日本人マネージャーから現地法人の組織やビジネスについて簡単な説明を受け、私は営業担当(アカウントマネージャー)として、日系大企業を担当することを知らされます。その数なんと50社以上。タイには多くの日系大企業が進出しており、彼らとは既存ビジネス、新規ビジネス問わず数多くの取引がありました。

今でも『地獄の日々』の始まりとなった配属初日のことはよく覚えています。担当企業を伝えられた後、PCなど必要なもののセットアップを終えた私にマネージャーが、「今メール何通か転送しといたから、後は宜しくお願いねー!」と言って去っていきました。
PCを確認すると、前任者がやり取りしていた何社ものお客様との膨大な数の英語でのメールが転送されていました。タイではお客様は日系企業でしたが、社内公用語は英語であり、またお客様とのやり取りもなるべく英語にするよう言われていました。(日本人同士の場合は日本語でいいのではと当初は思いましたが、後々その理由を知ることになります。)
また当然ですがスタッフのほとんどはタイ人です。日本人出向者は全体の5%にも満たない数でした。

なぜタイ駐在時代が地獄の日々だったのか。それは簡単に言うと「忙しすぎた」のです。会社はもの凄い成長率を持って伸びていましたから、数多くのお客様と数多くの案件を抱えていました。次から次に案件が降ってくる状態です。また現地法人においては、日本本社からの出向社員は大変貴重な戦力と見なされていました。④後編で詳細は触れますが、タイにおいても日本企業のお客様からは「日本品質」のサービス提供を求められており、その日本品質を支えているのは、日本でのサービス品質を知っている日本からの出向者だったのです。
私は配属としての建前は営業担当(アカウントマネージャー)でしたが、プロジェクトマネージャーとして、サービスマネージャーとして、カスタマーサポートマネージャーとして、営業以外にもあらゆる業務に携わることを求められていたのです。こちらも詳細は④後編で触れますが、タイに駐在したことで日本の、日本人の仕事の精密さ、丁寧さが世界でも類を見ないくらいの凄さであることを、身を持って知ることになります。タイやミャンマー、カンボジア、ラオス、それぞれの国の人と同僚やパートナーとして働きましたが、彼らの仕事の質は一言でいえば良い意味でも悪い意味でも大雑把であり、日本人の細かさや丁寧さはまるで無いと言ってよかったです。(もちろん中にはこの人日本人なんじゃなかろうか、というくらい細かく、丁寧な仕事をする素晴らしい人財もいました。)

マネージャーが初日に1つだけ教えてくれました。「我々は彼らの仕事を信用してはいけない。必ず疑って、最後まで自分で確認することを徹底しろ。」

私は営業としては、タイ人営業担当6人とパートナーを組み、アカウントマネージャーとしてマネージャー立場で彼らのタスクや品質管理を行うことになります。彼らとは基本的には提案フェーズを共にします。その後案件として受注されたら、今度はSEなどを入れたプロジェクトチームを立ち上げ、プロジェクトマネージャーとしてサービス導入までのプロジェクト管理を行います。そして構築・納品が終われば、カスタマーサービス、またはサービスサポートチームに関与し、サービスの恒常的な品質安定に向けた運用・保守管理を担います。

1つの案件でも膨大な工数が掛かる中、多い時は同時に30以上の案件を抱えていました。まさに地獄でした。唯一の救いは、自分の売上数字を気にする必要がほとんど無かった点です。膨大な数の相談がお客様から舞い込んでくるので、地方支店時代のように数字を上げるための新規開拓の為の労力は、ほぼいらなかったです。案件の引き合いは数多くあるので、あとは勝つか負けるかでした。結果として、私は配属時に伝えられた目標額に対して500%超えで着地しました。(もちろん勝つ為の工夫は必要ですし、そこに全力を注いだ結果ですよ。)

地獄の日々ではありましたが、私にとって幸運なことが下記2点ありました。

❶貴重な日本人出向者として、裁量権を持って仕事に取り組めた
❷受入先のマネージャー達が私の成長を計画的に考え、コミットしようと手を尽くしてくれた

❶はだいぶ良いように言いましたが、要は人が足りないので2年目のペーペーである私であったとしても、大きな責任の伴う案件を任せざるを得なかったのです。この点に関しては、営業の売上数字とはまた異なった種類のプレッシャーとして、大きな精神的負担となりましたが、私を加速度的に成長させてくれたポイントだと考えています。異国の地で、私の決断が誰もが知る大企業の1ビジネスの行方を左右しかねない、といった状況もありました。私がビジネスにおいて大切な要素だと考える、「決断力」「胆力」がここで養われました。

❷に関しては、地方支店時代に続き、タイでも上司達に恵まれました。地獄の日々と書きましたが、出向者の中ではそれでも1番私が楽だったと思います。
面白い話(笑えないですが)として、出向者はタイ人のドライバーがつき家と会社の往復を送迎してくれるのですが、私のチームの日本人ディレクターは毎朝6時出社、深夜0〜1時退社という勤務体系であったため、送迎ドライバーが倒れた、という事件?もありました。
上司達は皆さんタイプは異なっていましたが、時にはハードワーク過ぎて倒れて点滴を打たれながら出社したり、白髪を増やしながらフラフラになりながらも、私の成長のことを常に考えてくれました。地方支店時代の先輩、上司も素晴らしい方々でしたが、タイの最前線で戦っている先輩方はいわゆる凄腕の集まりでした。体力、メンタル面共に、今でも私は当時の彼らを化け物だと思っています。


1年目は恐らく同期の中では1番売上を上げていたこともあり、ある程度の自信を持ってタイに乗り込んだ私ですが、すぐに潰れることになります。
地方支店時代の私は、ある意味自分のペースで自由に仕事をしてきました。基本的に自分でコントロールできる範囲で、チームとしてではなく個人として動く機会が多かったのです。そのため、いきなり膨大なタスクを抱えた私はすぐに潰れました。チームをマネジメントしたことが無かった私は、膨大なタスクをどう人に振れば良いかが分からず、全て自分でこなそうとして、結果潰れたのです。
また、全ての仕事を英語でこなす必要があったことも、当初の私にはより工数が掛かるポイントとなっていました。TOEICは800点以上あり、英国留学経験もある私でしたが、ネイティブではありません。また同じくネイティブではないタイ人との英語でのコミュニケーションは、訛りがひどくて聞き取れないことも多く、コミュニケーションするのも一苦労でした。

潰れた、というと簡単な表現ですが、本当に全力で寝ずに頑張っても終わらない、終わりが見えない状況が続き、その結果タスク漏れや期限切れにより色々なところでトラブルが発生し、さらに自分の首が絞まる、という悪循環に陥りました。正直どう助けを求めれば良いかを考える余裕さえもなく、全力で対応し続けているうちに、到る所で火が上がりどうしようもない状況に陥ってしまったのです。

この時、マネージャーの1人が火消し役として関与してくれたのですが、私の仕事の取り組み方含めて細かく指導をしてくれ、助けてくれました。詳細は⑤終わりに、で触れますが、ここで私は「タスク管理」「チームマネジメント」を実践を通じて学ぶこととなります。

徐々に学びながら立ち直り、成長もすることで仕事をうまく回せるようになっていった私でしたが、やはり仕事量が膨大であったため、基本は土日も仕事をしていました。
私の在籍時も会社の成長率は20%程あったため、日が経つにつれより忙しくなる状況でした。21連勤や多い時は28連勤などもありました。あまりの忙しさに度々メンタルもやられそうになり、身体的には胃潰瘍のようなものにもなりましたが、仕事そのものは面白く、日々自分自身の成長を感じることもできたので、何とか耐えることが出来たのだと思います。

やはり海外での仕事は面白い点がたくさんありました。お客様がグローバルに展開している企業が多かったことから、日本本社はもちろん、シンガポールや香港、マレーシア、ベトナムなど近隣アジア諸国と連携しながらのプロジェクトもいくつか経験しましたが、文化背景も異なる多種多様な人種とチームとして働くことは新鮮でしたし、何よりも「世界で戦っている」という意識を持ちながら仕事に向き合うことが出来ました。

大きな責任感を負いながら、日本企業を背負って、日本の代表として世界を舞台に戦っている。そんな実感を得ながら仕事に取り組めたことで、地獄のような忙しい日々も乗り切ることが出来ました。

次章では、実際にタイで経験した下記3つのプロジェクト事例も示しながら、タイでの経験についてご紹介させていただきます。

❶大手製造業のラオス進出支援
❷大手金融企業のミャンマー進出支援
❸大手製造業の3ヶ国合同プロジェクト


続く


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