母の何気ない一言から、私の家族は期間限定 ステップファミリーになっていた話。
こんにちは。
最近、痛みが身体中を駆け巡る私です。
多分、年齢のせい…。
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さて今日は、私の昔々の経験談が9割です。
文章力が乏しいがゆえに、タイトルの内容に到達するまで、どうでも良い話が延々と綴られます。
そのくせ、オチがたいして面白くもありません。
この時点で、なぁんだ❗と思われた方はスルーして下さい。
それでも、どうしても気になる方は承知されてお読み下さい。m(._.)m
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「あれ」から随分時間が経ちました。
「あれ」とは阪神タイガース優勝ではありません。
私が遭った交通事故のことです。
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あれから、もうかれこれ15年の上は経過しているかと。
遭いたくて遭ったのではありません。
しかし、結果、そうなりました。
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エアバッグは開かなかった。
気がついたら、私はどこを向いているのだろう?
ナゾなほどまでに、さっきまでの進行方向とは違う向きで車は停止していた。
頸部から頭部にかけての痛みを堪えながら、車から降りた。
未だかつて見たことのない群衆。
あぁ、これが野次馬と言うのだろう。
私や車の周囲をドーナツ状に、まるで壁のように立ち並ぶ野次馬…初めて見た光景だった。
この人達は、このアクシデントが起きてから集まった人達。
きっとこの中の誰かが召集したのであろうお巡りさんに、記憶にある限りの経緯説明をすることになった。
その間は、兎にも角にも気が張っていた。
ナゼこうなったか?は、判らなかった。
情けない哉、肝心な部分は記憶がなかった。
けれど、きっと私にも、きっと…きっと落ち度があったに違いない。
単純に認めたくはないが…。
きっと油断したに違いない。
私だけでなく相手もまた。
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お巡りさんから「体は大丈夫ですか?」と尋ねられ「はい。大丈夫です」と返答した。
初めてのことなので不安はあったが、こんなことで屁古垂れるものかと、気持ちだけは勇ましかった。
とにかく返答だけは気丈だった。
数々の質問。
数時間の後に解放されたは良いが、既に壊れた車は動かない…。
レッカー車の手配をし、積載車が来るのを待つ。
日をまたぐような時刻に家路に着いたことまでは覚えている。
明日も仕事だと言うのに…。
どうやって出勤しようか…。
そんな心労よりも身体中が痛み、眠れなかった。
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翌日、家の者に頭を下げ、実家の車を借りて出勤した。
当然と言えば当然だが、体調はすこぶる悪い。
常にフラフラした軽い眩暈だった。
私は持病を持っている。
その持病のメニエールが酷い時は、もっと酷い苦痛に襲われる。
それとは若干違った感覚だったけれど、昨晩の出来事は認めなければならない。
自分は自分のことを「職責の念が強い」と思った。
自分をこのように評価したのは初めてだった。
そして就業中、強い強い吐き気と眩暈で倒れた。
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上司から、すぐさま医者へ行くよう促され、同僚から紹介されて行った病院では「〝当てられた〟と思うから痛いのだ」との精神論を唱えられ、検査もなかった。
「治るものも治らないとはこのことだ」と、苛立ちながら職場へ戻った。
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こんな中、職場では私を観察している人がいた。
その人から「その症状なら◯◯医院へ行け」と言われた。
こういう時に冷静な観察をする人がいたことに驚きと感謝だった。
藁にも縋る思いで急行した。
そこは大病院ではなく、個人クリニックだった。
しかし間もなく、私のクリニックに対する先入観を簡単に崩壊させることが起きた。
私を含めた大勢の患者を横目に救急車が来たのだ。
そう、そのクリニックは救急患者を受け入れていたのだった。
結果、待合室で待つこと3時間以上。
痛みと吐き気と眩暈の三重苦に耐え、ようやく診察の番が巡って来た。
あぁ困った時は〝この方法〟があったか…。
早く診て貰えるじゃないか!
そう思った。
しかし今も〝この方法〟は使ったことはないが…。
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それからは診察と…検査と診察と…検査と診察と…検査と…幾度も続いた。
そうだ!
生まれて初めてMRIに入ったのもこのクリニックだった。
個人医院であるがMRIを導入していた。
直ぐに、この医院の混雑理由が解った。
先生はニコリともしない。
何時でも機嫌が悪そうな…だが診察は的確だった。
医師として的確な診療は当然なのだ。
医師もサービス業と言われる時代に、むしろ無愛想の方が信頼が置けると思った。
そして間もなく私の症状の原因が明らかになった。
頚椎捻挫に加え脳脊髄液減少症だった。
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その脳脊髄液減少症の治療は、脊椎に注射を打つ方法が選択された。
ほんの数ミリでも、針位置がズレただけで半身不随になると言われるほど繊細な治療だったようだ。
が、その繊細さに反し用いられる注射器はと言うと、爆笑必至のバランスの悪さ。
まるで昭和のギャグのような太さだったことを記憶している。
しかし、実際に笑ったわけではない。
恐怖でいっぱいだった。
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目が覚めたら帰宅して良いと言われていた。
しかし、頸から注射を打った患部そして腰部まで、痛みを伴うだけでなく、体に副わせて、まるで蒲鉾板のようなコルセットがなお一層、メンタルを阻み、動きを阻み、とても車の運転など出来そうになかった。
またもや家の者に迎えに来てもらうよう頭を下げた。
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当時、私が暮らしていた集合住宅には管理人さんがいた。
その管理人さんは、私の父と とても仲良しだった。
イイ年齢をしたオジサンとオバサンだけど〝会話が合う〟とはこの二人のことだと思った。
その時、珍しく母も連れ立っていた。
多分、管理人さんが母に会うのは、この時が初めてだったと思う。
何も知らない管理人さんに、父は今までの経緯を話す。
他人事のように軽く、時には笑いを交えて。
しかし、その笑い声を聞きながら私は痛みに耐え兼ねて、管理人室の前で倒れ込んでしまったのだった。
その時、その倒れた私を立ったまま見下ろして母は言い放ったのだ。
「早く自分の部屋に戻りなさい。明日も仕事でしょ」
遠い意識の中でそう聞こえた。
管理人さんはいつもの大きな目👀を一段とグリグリさせて、吃驚の表情で黙ってしまったようだった。
何も驚くことなどない。
私からすれば、如何にも母が普通に言いそうなセリフだっただけ…。
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それから時折、管理人さんとの立ち話の中に「お母さんとは上手くやってるの?」が付け足されるようになった。
初めて母を見て、きっと驚いたのかも知れない。
あの発言…も、あったことだし。
この女の人が、この父(私の父)の奥さんなの?と思ったのだろう。
私は、こんな感じに捉えていた。
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しばらくして、管理人さんの言う「お母さんと」は「お継母さん」と言う意味だと知った。
管理人さんはすっかり私の実母を「継母」と信じ込んでいたようだった。
実は、実の親子であっても仲は良くない。
「親子だから仲が良い」なんてことは…ない。
集合住宅の管理人という職業柄、単なる自分の思い込みを他人に言い触らすことなどしないだろうと、管理人さんを信じていた。
なのでその後も訂正する必要はないとそのままに、そして時は過ぎた。
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数年後、私はその集合住宅を出ることになった。
管理人さんの思う、例の「お継母さんの件」は、正直、どうでも良いことだけど、それでも「誤解」のまま此処を離れるのは気持ちが悪かった。
なので思い切って「あの時のあのセリフは、いつもの母の、如何にも母らしい言葉」だったと、話した。
てっきり継母と信じて疑わなかった管理人さんは「実母」と聞き、相当な驚きっぷりだった。
別れ際、立ち話もそろそろの時、管理人さんはしみじみ私に言った。
「自分が生んだ子なら、あの時〝明日も仕事でしょ〟なんて言えない。
〝明日は休みなさい、ゆっくり治しなさい〟と言うのが生んだ母親ってものじゃないの?」
優しいお母さんなんだな…。
管理人さんの子供が、ちょっとだけ羨ましく思えた。
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母の、いつもの何気ない一言で、私たち家族は数年の期間限定ステップファミリーになっていた。
今となっては、片頬笑む思い出。
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今日は、arayan12 さんよりゆる〜い注射器の画をお借りしました。
ありがとうございました。
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