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短編小説「その彼女」

 大きく一息。体のなかの酸素と二酸化炭素をすべて吐き終えてから、小さく吸い直して、やっぱり小さく、二息目を吐き出した。三つ目の深呼吸をしようと、思い切り、吸い込んだところで、後から肩を、ぱしん、と叩かれた。左斜め上を振り返る。詰まった鼻から、ぴー、が鳴る。
「休憩しよう」
 目の前に差し出された黒いカップから白い湯気。全開の鼻先にちらほらして、それから、鼻腔に侵入してくる、香ばしい香。これって、確か、ジャマイカのブルーマウンテン。筋肉が、神経がほぐれる。背骨は力を失って、パソコンやら書類やらで空白すらないデスクの上に、私は崩れ落ちた。まるでその光景は、ダイナマイトで爆破解体されたビルのように崩落していたと思う。
 何日、寝てないんだっけ。指折る。四日。四日って、かなりやばい。手渡されたコーヒーを啜る。ほろ苦い。美味しい。生き返る。甘いもの食べたい。きっと、かの伝説のボブ・マーレーだって、きっと、これを飲んでたよね。愛と平和。窓の外の、少し上の空を見上げて、そんなことを願っただろうか。
 愛や平和とは無縁なデスクを見て、もうひとくち、啜った。美味しい。苦味が嬉しい。甘いものなかったっけ。引き出しを下から順に引く。なかった。書類やらUSBやらディスクやら、潤いのないものがちらほらと。砂漠みたいだ。乾燥した人生をやってたのね。
 それから、思い切って、大きく、ためて、息を吐き出す。ため息。溜めた息。漢字はそれでいいんだったっけ、なんて、不得意な分野のことを考えて、カップを咥えたまんま、キーボードの右横でうつ伏せになっていた論文を手にした。
「少し休もう?」
 ほら。目も閉じかかってるようだし。もう一杯、コーヒーどう? だんでぃーってやつなんだろうな、白髪の主任には、大丈夫でふ、もう少し頑張りたいのでふ、と、もう、頑張れなくなった弱々しい声を吐く。眠りたい。限界だ。スマートフォンを持つ。オフ。充電ありませんでした。
「世界大戦が始まるまで、あと、どれくらい残ってまふかー」
 ダメ人間そのものの、緩慢な口調で、私は残存時間について訊く。残り少ないことはわかっていた。白髪の主任が持ってきてくれたチョコレートの包みを開ける。口を引き出しみたいに開けて、チョコを舌に乗せ、顎を戻す。甘い。うまい。切れ目の入った、その包みの、消費期限がいつなのか気になった。その向こうには、新人類論。サイボーグ工学。クローンとその人類史。モバイルスーツの運動力学。アンドロイドとの共存。レイバーの物理学。ニュータイプに見る人間の進展。トミノヨシユキの描いた時代。宇宙世紀概論。汎用人型兵器概要。ロボットと物理工学。ヴァンツァー、その基礎知識と応用。フ○ントミッション攻略。フジコフジオ語録。パーマンとコピーロボットについて。科学とサイエンス・フィクションがごちゃごちゃになっている、私のデスク。ちなみに、チョコの消費期限は、2028年6月だった。まだ時間はある。たくさんはないけど、残ってはいる。いま、やらなきゃ。
「もう、あんまり時間ないっす」
 上座のデスクのモニタの向こうで、白髪の主任は、そうだね、とだけ、言って、私より大きなため息をついた。眉間にしわを寄せた。二度目の、そうだね。ひと気の減った研究室で、私は少しだけ眠った。たぶん、夢を見ていた。

 ねえ。聞こえる?
 誰の声だろう。聞いたことがある、気がした。私はその声のほうへ体を傾けた。聞こえるよ。君はどこにいるの? そして、一歩。それから、二歩。三歩めから、いよいよ駆け出した。樹々の真上を見上げて、その声の出どころを探す。感知しようと試みた。手にしていたデバイスで集音しようと考えて、熱源の在処も探す。私たちより人より少し高い温度を。
「聞こえてる! 君はどこにいる?」
 私は空に向けて叫んだ。待っている時間がない。早く降りて来て、私の願い。私の思い。私たちは、ここから生まれたんだよ。君にそう話して、私は、裸足になって、海に入った。
 もういいかい?
 私は問う。
 まーだだよ。
 君が応える。
 プログラムしておいた、私たちだけの合言葉。もういいかい。まーだだよ。そう、いつか、お互いを確認できるように。
「君は」
 思い出す、波打際。
 憶えているよ、初夏の海辺。
 私は君はをこの手に抱きしめた。あのときの温もりのことをよく憶えている。さざめく水面は降りしきる光を乱反射して明滅を繰り返していた。どこか遠くで雷音が聞こえた、気がした。それでも、私たちは、その砂浜から離れなかった。
 はるか過去に遠ざかっても、私は、私たちは、あの海のことを忘れたりはしない。そこには、あるべきはずの永遠が波飛沫に輝き、満ち欠けと共に時間が過ぎていた。あの美しい世界をもう一度。私たちはそんな途方もない願いと共に生きてきたのだ。

 三度目の世界大戦の最中に私は生まれた。隣の市にミサイルが落ちた。通っていた小学校が崩落した。いまだに連絡の取れない友達がいる。それから数年後、最後の戦争は宇宙空間から始まった。衛星から地球上への攻撃が始まり、やがて、無人の戦闘機と無人の潜水艦が、それぞれに空から、海から爆撃を繰り返すようになり、人類の戦争は誰ひとり勝者を生まなかった。攻撃するためにだけ作られた兵器は、地下に逃げ延びようとする人々をめざとく見つけては追い回して、空から火を噴かせた。ソナーは熱源を感知し、人々が逃げ延びた地下には容赦なく無人の戦車が走ってきた。私たちは、人類の戦争史を学び、可能なら、軌道修正を図りたいと考えた。
 16歳でボストン工科大を卒業した私は、あるコロニーに居を移した。月の周回軌道に浮かび、約五百人が住む、舟のようなものだ。方舟とも呼ばれていた。そこでは、工学と物理のエキスパートたちが、人類史を再構築しようと研究を重ねていたからだ。そこで、ロボット工学を本格的に学び、やがて、私は、ひとりの「人」を生み出したのだ。
 彼はその正式名称を、RX-2038-01-16-robという。彼が産まれた日ではない。私の産まれた日だ。彼は私の子供と同じ。だからこそ、私自身の誕生日を型式とした。呼び名は別にある。rob。ロビンソンを略した。古い、母国の、美しい歌のタイトルを借り、彼の呼称とした。
 そのころ、私は28になっていた。
「聞こえる?」
 静かに立ち上がった、彼に問う。
「初めまして」
 彼は言う。まばたきを二度。開いた手のひらをじっと見つめた。
「君の名は、ロビンソン。私は、君と友達になりたい」
 彼は目を閉じ、私の言葉を受け入れた。
「うん。僕たちは、友達になれる」
 彼の造形は、かつてのクラスメイトの青年期をシミュレートしてデザインした。一度も名を呼んだことはなかった人だった。
「いまから、地球という星へ行きます。現代の荒廃した地球ではなく、人々が大規模戦争を始める前の地球へ」
 1920年代後半に行くことになっていた。百年以上の時間旅行は、人類史上で初めてのことだ。
「僕は」
 彼は話した。
「その星で、人々の生活を。暮らしを。進化を。そして、戦争のすべての記録を取得する」
 それでいい? 
 ええ。私は彼の手を握った。あたたかかった。人の作った人は、きっと人よりあたたかい。
「未来で待ってる。必ず、迎えに行くから」
 そして、私たちは地球へ向かう船に乗ったのだ。最初の大戦前のヨーロッパ大陸に彼を残した。不死の彼は、すぐに兵に志願して、営みを、人の心を、争いのことをデータとして、方舟にいる私たちに送ってくれた。
 研究者である私たちは、人類の歴史そのものに見続けることはできなかった。舟のなかで、150年ほどの冷凍睡眠の期間をつくり、改めて、地球に向かうことにした。
 私のプログラムが正しければ、ちょうど、彼の停止時期と重なることになる。いつかきっと。また会える。そう思って、眠りについた。

 夢を見ていたような気がした。そこで彼は戦い、傷つき、疲れ果てて泣いて眠っていた。翌日には回復し、新しい誰かのために戦った。名を変え、経歴を変え、ときには顔すら変え。人種だって、言語だって。誰かと恋をしたり、大切な人と笑顔でごはんを食べて、しかし、誰もが彼より早くに死んでしまった。やがて、彼はひとりになってしまっていた。
 そして、歴史のすべてを知りながら、それを変えようとはせず、観察者に、傍観者に徹していた。地球に残された最後の人は、人類史でもっとも清らかな人になった。
 ねえ、聞こえる?
 私は彼に問う。
 聞こえるよ。
 彼は言う。
 すぐに行くからね。待ってて。
 うん。わかってる。待ってるよ、君のこと。
 海に行こう。私たちはそこで生まれたんだ。海で待ってる。なるべく……。
 早く行くよ。
 もういいかい? 私は問う。
 もういいよ。君が言う。
 君はあの日のように、開いた手のひらをじっと見るのだろう。私は、その、誰にも繋がっていない、ひとりぼっちの手を握らなくてはならないんだ。


artwork and words by billy.
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