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「君に届け」

 届いてる?

 月に有人船が軟着陸した瞬間のこと。

 いくら凝らしたところで微かにさえそれを視ることのできない肉眼の私たちは開けたままの大口に、夫婦、恋人、友人、やむにやまれぬ訳ありのお二人が、互いにひとかけらのチョコレートを放り込んでいた。
「見える?」
「あれじゃない?」
 指差す先には穴ぼこだらけの月が浮き上がり、私たちは首が疲れる。ひなが親鳥に餌をもらうのと同じ角度のままだったから

 私はチョコレートを放り込む相手がそこにいなかった。
 旅に立つ恋人に「私も連れてって」とは言えなかった。言ったところでどうなるものでもなく、また、少し眉を下げて「参ったな」って言われるのも知っていた。

 だから彼には。
「無事に帰ってきてよね」とだけ。
 彼からは。
「うん、しばらく待ってて」と。
 二週間前のこと。

 遠いね。私は言う。
 そんなでもない。彼は言ったと後に言う。
 ふたりで買い物をした夕方の赤い川沿いで、袋から転がった果実を追う背中が一瞬だけ遠く見えた、そのときのことをなぜか思い出した。

 届いてる。

 月に有人船が軟着陸した瞬間のこと。

 君のことを考えていた。いま、なにをしているのかなって。ほんとはそれどころじゃないんだろうけど。
 でもなぜか、どうしてかわからないけど、転がった果実を追って伸ばした手のひらの先に重なる、君の細い影のことをふと思い出したんだ。

 眠りから覚めた僕は窓の外を見ようと部屋を出る。おぼつかない足元をふわふわと進む。まだ夢が続いているみたいだ。
 夢。僕の夢。どこか遠く海のなかを漂っている。海のなか? 深くて暗くて……伸ばした手の先が溶けて消えてしまうくらいに濃い青のなかに僕はいる。
 違う。夢じゃない。ここは深海じゃない。窓の外に広がる風景は夜中の砂漠にきっと似ている。眠るときに見る夢じゃない。

 僕はいる。
 伸ばした手の先にあった果実の上に僕はいる。
 遠く離れた君に声を届ける。
「きっと無事に帰るから」。
 君はきっと僕にいう。
「うん。ここで待ってる」と。

 月に届いた有人船が再び地球に戻る。帰還軌道に乗ったと聞いた私は昼間の薄く白い月を見上げた。目を凝らす。そこにちかりと光る銀色がかすかに見えた。
「気をつけて」
 陽射しに手のひらを向けた。それでも、晴れたこの世界はあまりに眩い。

 転がった果実を拾った僕は振り返った。
 そこに笑顔の君がいた。

 私は。
 僕は。
 君を待っている。それぞれに惑い続ける星を眺めて、惑い続けて。
 問い続ける。訊ね合う。答はない。なくてもいい。あきらめたりはしない。

「ねぇ」
「うん」
「見えてる?」
「少しだけ。でも、届いてる」
「会いたい」
「うん。届いてた」
「ほんと?」
「ずっと。ずっと届いてた」
「君のことを夢に見たよ」
「夢じゃない」
「ほんとに?」
「帰るよ。絶対」
「約束して」
「約束する。君のところに帰る」

 月に届いた彼は帰還軌道に乗ってくれたみたいで、そこでメールは途絶えた。
 私はちかっと白銀に光る船を見た。
 ねえ、見えたんだ。戻ってくる星のことを私は見たよ。
 ここで待ってる。
 空にかざした手のひらに、君の手のひらが重なるときを待ってる。

photograph and words by billy.

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