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短編小説「世界の終わり」

「帰りたいんだ」
 たどたどしい日本語で男はそう言った。帰りたい、それが彼と彼の仲間たちの要求なのだという。
 最上階の窓から叫ばれるそれは取り囲む誰かに届いてはいるのだろう。見上げる窓は回転する赤が左から右へ振り子のように流れる。拡声器が「投降しなさい」を定期的に繰り返す。
 男は「人質は無事だ、僕たちは国へ帰りたいだけだ」、そう返す。要求というより懇願に聞こえた。声を荒げるたびに語尾が弱弱しく千切れる。
「帰りたい、か。ねえ、あなたたちはどこから来たの?」
「遠い……おまえたちが嫌っている国だ」
「……嫌ってる? 私たちがあなたたちを?」
「そうだ、嫌っているくせに私たちは買われる。そして使われる」
「そう。あなたが帰りたいその国はあなたを売ったのね」
 彼はそれに応えなかったが動揺がその目に浮かぶ。真っ直ぐに私を見据えていた視線は揺らぎ、羽虫を追うように左右に揺れ、やがて行き場を失くして床へと落ちる。
 天井に張った雨が滴になりぽつんと落ちる。
 彼らは貧しい山村に育ったのだという。飢えても食べるものはなく、土を舐め樹の皮を剥いだ、家財を売って都へ向かおうとした大人たちの痩せた背を見て育ったのだ。それはかつてのどこかに似ている。そう、私たちが育ったこの国だ。
「君たちは包囲されている。どこへも逃げられはしない。投降しなさい」
「僕たちは誰にも怪我はさせない、国へ帰らせて欲しい」
 言語とはなんと貧弱なのだろうと私は思う。同じ時代、同じ国に生き、同じ呼吸をする者同士が互いの主張を理解することさえままならない。彼らの要求が聞き入れられることはない。そもそも通じているのかどうかも怪しい。
 噛み合わない言葉と言葉が放物線を描いて落ちる、それぞれに拾い合うことはない。湖に放り込まれる石と同じだ、着地点を見つける者がいない。
 それでも彼らは叫び続ける。
「帰りたいんだ」と。

「少しだけ我慢して欲しい。僕たちはあなたたちを傷つけたりしない」
 それは一昨日のことだった。
 ニット帽を深く被った男たちはそれぞれに武装していた。紛争やテロリズムは現実の出来事ではなく、あくまでニュースのなかかフィクションの世界だと考えていた私たちにとって、それは唐突な悪夢のようで、ただただ、呆気にとられただけだった。悪質な悪戯だと勘違いした一人は威勢良く立ち向かいはしたが、天井に向けられた銃声の一発で腰が抜け、へたりこみ、漏らして床に溜まりをつくった。
 片田舎の、小さな町工場を襲撃してなにになるのかと思ったけれど、彼らの要求は金銭ではなかった、そして、わずか半年ほど前までここに従事していた人々だった。私たちの半分以下の賃金で、倍以上の労働を課せられた、名前さえろくに記憶されない外国人のAとBとCとDだった。
 彼らが願いを発露できるのは自らを買い、道具として扱った場所しかなかった。
 そう、声高に人権が叫ばれる一方でヒトは使い捨ての利く道具でもある。彼らがそうであったように、私がそうであるように。

 私は目隠しを解いてもらっていた。
 女だからかもしれないし、話を聞こうとしたからかもしれない。
 手足を縛られ自由に身動きこそできないが、置かれた状況を把握することだけはできた。
 猟銃とナイフ。まだらに汚れが染み付き夜戦向けの迷彩柄に見間違う作業服。よく見ればそれがこの工場の制服にされている安価で粗末な化学繊維のものだとわかる。踵のめくれたスニーカーがパタパタと音を鳴らす。トイレのスリッパを履いている者もいる。そして悲しいほどにそれは彼らに似合っていた。
 彼らはまだ若い。策略なんてない。残念ながら法を超えるような手段を知るような知恵もない。この暴挙の無理を振り返るほどに冷静でもない。家に帰りたがる子供と変わらない。デモを起こせば本気で何かが変わると考える、純粋で愚鈍な子供でしかないのだ。
「おまえは、僕たちが怖くないのか?」
「怖くない。最初は怖かったけど、いまは怖くなんてない。あなたは私と同じ。私はあなたと同じ」
 ふと、衰弱死したスズメの子を思い出した。巣から転落してしまったスズメはインコたちとは共存できず、拾い上げたつもりの命は芯を抜き取られるように痩せ細ってエサ箱で眠っていたのだ。
「同じ……?」
「ほんとうは帰れないって知ってる。もう行く場所なんてないことを知っているからこんなことをしているだけ」
「そんなことは……僕たちは逃げる。逃げて、帰る」
「外は拳銃を持った警察が取り囲んでいるの。空からヘリも睨んでる」
 テレビをつけると私たちのいる建物が映し出されていた。外国人労働者による凶悪な立てこもり事件だと報じられていた。ジュラルミンを持った機動隊が円をなし、カメラとマイクを持った報道陣が円になり、その後ろに見物人たちが円をつくっていた。カメラに映り込んだ「善良なる一般市民たち」のなかには笑顔さえ浮かべるものもいた。暇を潰せさえすれば、対象がなんであっても良いのだろう。私たちの誰かが射殺されたとしても、彼らはすぐに忘れて次の暇つぶしを見つけるのだろう。
 幾重にも重なり合った輪のなかで、重なり合うことのない希求がふくらんで弾ける。弾けるためにふくらむ。
「ひとつだけ……」
 私は彼に告げる。
「ひとつだけ、ここから脱出できるかもしれない方法がある」
「もう、もうダメなんだ……」
 彼はすでに悔いていた、テレビに映された自身の顔写真と本名と罪名がそうさせたのかもしれないし、停滞した状況が平静さを取り戻させたのかもしれない。
 取り囲む拡声器と赤いライト、旋回するヘリコプター、すべての色と音。檻のなかで暴れた鳥に突きつけられた麻酔銃。聞きなさい、私は子供の頬を打つ。
「私を盾に外へ出るの」
 そして裏口へ。社用車が停まっている。鍵なら持っている。君は助手席で私に銃を向けていなさい。
「どうして……?」
「君と私は同じ。そう言ったでしょう?」
 なにが同じかはいつか話そうと思っていた。私たちが生きて逃げることができたら。いま、話すことでもない。
「もう帰れない。逃げるだけ。それでいいでしょう?」
「み、みんなは……?」
 彼は振り返る。疲弊しきった、無策な立てこもり犯たち。彼らを連れてはいけない。
「忘れて。ゲームには犠牲者がつきものなの。殺されはしないから安心なさい」
「どこへ逃げる……?」
「そんなの知らない。ここでなければそれでいいの」
 どこへだって行ける。わたしたちの同族なら港にいるでしょう。いくらか支払えば載せて行ってくれるでしょう。
 お金だって手にしたばかり。プールされたぶんの口座なら体に教えてもらったの。ついでにクルマごと沈んでもらいましょう。バイバイ、ボス。トランクは寒いでしょう? 冬の海はもっと寒いのよ、私の体とは違うのよ。
 そう。逃亡に最高のタイミングであらわれたのがあなたなの。
 帰る場所なんてないのよ。私たちは進む以外にないの。そのためにはなにをしたっていい。神様が赦してくれないのなら、私は神様を赦してあげない。
「さあ」
 この世の果てまで連れてって。

photograph and words by billy.


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