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【短編小説】らっぽやん #1

 空襲がひどくなるというので、
ミノルが名古屋から奥三河の村にある
親戚の農家へ一人で疎開したのは、
昭和20年の春のことだった。

 元々田畑が少ない山間の土地なので
決して裕福とはいえなかったが、
国民学校4年の育ち盛りのミノルには、
名古屋より食べ物があることが
とにかく嬉しかった。
 
 ただ、賑やかな夕餉ゆうげの時になると、
戦地に行ったままの父や、
名古屋に残した母のいない寂しさが
胸にこみ上げてきた。

 分校までは峠を一つ越えて
いかなくてはならなかった。
おばさんが持たせてくれた、
雑穀握り飯の弁当を手に、
沢水が脇を流れる山道を
ミノルが登っていくと、
同じ年くらいの一人の少年が、
空を見上げていた。
 
 ミノルが近づき一緒に見上げると、
その少年は、
「らっぽが飛んどる!」
と独り言のようにつぶやいた。

「らっぽ?」
近視気味のミノルには、
何が飛んでいるのかわからない。

「空を見とりん、
 黒いトンボが飛んでくだらあ!」
「トンボ?」

 そう言われて見てみると、
確かに一匹の黒いトンボのような虫が
山道の上空5メートルほどのところを
猛スピードで飛んで行く。
しかし、あまりに速すぎて、
ミノルの目にはどんなトンボなのか
全くわからない。

「あれ、何トンボ?」
振り返って少年に聞こうとしたが、
そこはすでにもう誰もいなかった。


 
 分校は一クラスが20人ほどで、
1年生から6年生まで一緒だった。
その中に山道で出会った少年もいた。
ミノルと同じ4年生で、
恥ずかしそうにタケシと名乗った。
 
 山の分校は、
名古屋の国民学校ほどではないが、
軍事教練だの体操だのの時間が多く、
運動神経があまりよくない
ミノルにとっては、苦痛そのもので、
何をやってもうまくいかず
配属将校に叱られてばかりだった。
 逆にタケシは運動神経抜群で、
どんな運動も
まるで軽業師かるわざしのようにこなした。

「さすが、らっぽやん!」
タケシはクラスのみんなから、
尊敬のまなざしを集めていた。

 
 昼休みになるといつもタケシは
いつの間にか教室からいなくなった。
級長のシゲルに聞くと、母親が病気で
弁当がないため、恥ずかしくて、
午前中で帰ってしまうという。
 ミノルは自分の握り飯を持って、
タケシを探しに峠道の方へ、
戻ってみることにした。
 
 

 峠を越えると、沢の方で、
何か動く気配がする。
ミノルが恐る恐る近づいてみると、
タケシが水の中に入り、
石の下に手を突っ込んでいた。
そして素早く魚を手掴てづかみにした。
それは両手に余るほど大きな
美しいアマゴだった。

 近くにミノルが来ていることに
気づいていたのか、
タケシはミノルに向けて
両手で魚をつかみ、
目の前に捧げ持ちながら、
自慢げに笑った。
 
「すごいね!タケシくん!」

 ミノルも
持ってきた握り飯の包みを、
タケシがしたように、
捧げ持ちながら笑い返した。

 魚の捕え方を教えてもらう代わりに、
とミノルが差し出した握り飯を、
二人は分け合って並んで食べた。

「うんめいなー!」
「うん、うんめいなー!」

 ミノルも相槌を打ち、
顔を見合わせて笑った。

 ミノルがタケシに教わったのは
魚とりだけじゃなかった。

 水がぬるみ始めた初夏、
山里の水辺のあちこちで、
大きなヤンマが飛び始めた。
 タケシは
「ゼロ戦に乗ってる兄貴のもの」
だという虫採り網を素早く振り回し、
どんなに速いヤンマも必ず捕まえた。
見ていた子どもたちは、
そのたびに
「らっぽやーん!」と叫び、
タケシは捕まえたトンボの羽を
指に挟んで自慢げに目前に掲げた。
「らっぽやん」はトンボとり名人の、
名誉の称号だ。

「ミノル、おまんもやってみりん!」

 虫採り網を渡されたミノルは、
飛んでいるギンヤンマに向かって
網を振った。
網はヤンマに軽々とかわされ、
そのへっぴり腰の様子を指さして、
みんなが笑った。

「飛んどるらっぽは下から掬わんと
 捕らまれんよ!」

 タケシからコツを教わり、
ミノルは汗だくになって
ギンヤンマを追いかけた。
下手糞だったけど、
追いかけているときは、
父が戦地にいることも、
母と離れ離れであることも忘れた。
ただ夢中に網を振った。

 初夏の太陽が山の端に落ちかけた頃、
ついにオスのギンヤンマが、
ミノルの網に入った。
そして指で羽を挟んだギンヤンマを、
目の前に掲げた。
精悍な顔立ちのギンヤンマが
勲章のように思えた。

 「いよっ!らっぽやーん!」

 タケシが嬉しそうに叫んだ。


作:増田達彦(水澄げんごろう)
初出:2021年春 名古屋市水辺研究会「水辺の会報」
この作品はフィクションです。
※著作権は作者と中日本制作所
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