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見えない真実のための果てしない「嘘」/「数人で読む外国文学」atジュンク堂書店福岡店のための選書15冊

ほかの企画参加者↓

toibooks店主・磯上さん

柏書房編集者・竹田さん

舞踏会へ向かう三人の農夫(リチャード・パワーズ)

パワーズは他人じゃない。そう思わざるを得ないは、物理学者を目指していたはずが「小説を書いてしまっている」人生に導かれてしまっているから。複数のフィールドを横断して描くパワーズの世界は複雑極まるが、その複雑さが彼が「小説を書いている」という事実をリアルにする。ボルヘスはいった。「偶然というものは存在しない。私たちが偶然と呼んでいるのは因果関係の複雑な仕組みに対する私たちの無知である」。

われらが歌う時(リチャード・パワーズ)

パワーズの2つの偏愛──それは「自然科学」と「音楽」だ。本作は名門ジュリアード音楽院を舞台にした兄弟の物語で、黒人歌手の母とユダヤ人物理学者を父に持つ彼らは表現を追求するほどにそのアイデンティティの所在が切実さを帯び、音楽の自由は表現者たちの手が届き得ないはるか遠い時空の因果によって支えられている。その自由を引き受けて兄は歌い、弟はピアノを弾く。その瞬間、かれらの音楽は自然科学になる。

競売ナンバー49の叫び(トマス・ピンチョン)

物語は神たる作者により設計されたものだろうか。きっとピンチョンを読めばそうではないと確信できるはずだ。次に書く一文で世界がどうなるかわからないし、物事は都合よく連続かつなめらかに進んでくれない。ピンチョンの作品に引きずり出されるのは「物語」と呼びうるなめらかさを信じたい読者のパラノイアだ。意味への偏執でかれの文章は凶暴化する。まずはそれを「世界」と名付けてみて欲しい。

マジック・フォー・ビギナーズ(ケリー・リンク)

ケリー・リンクの小説は言葉が世界よりもはやい。例えば表題作の冒頭はこうだ。「フォックスはテレビの登場人物であり、まだ死んでいない。でもまもなく死ぬだろう」。リアリズムに根ざした小説は現実を生きるぼくらの肉体と死生観がわかちがたいが、リンクの言葉はそんな世界を解体する。死ぬことが悲しみとは限らない。死んでもまた大好きな人に会える。地球に生きていることが悔しくなるような世界に、この地球上で出会えることの幸福を。

ロマン(ウラジミール・ソローキン)

「ロマン=小説」。その死の瞬間に向かってソローキンの代表作「ロマン」は書かれている。19世紀ロシア文学に擬態し、その物語が最高潮を迎えたところで徹底的に小説世界が破壊される。ソローキンの毒牙により物語も文体も残虐の限りが尽くされ、長い時間をかけて処刑され、やがて絶命する。小説の死。ぼくらがいま読んでいるものは、いかなる死を乗り越えたものだろうか。

2666(ロベルト・ボラーニョ)

南米の鬼才ロベルト・ボラーニョの遺作であり、最高傑作とされる本作は友人たちの「裏切り」によって世に出ることとなった。5作からなる本書は、遺言によれば「連作小説として5冊の本として出版するように」と記されていたという。この小説が作者の意向を「無視」し、鞄にも収まらない不便極まりないかたちで出版されたことの是非について考えてもらいたい。亡き作者の意志を裏切るほどの小説を、どうかその目で確かめて。

灯台へ(ヴァージニア・ウルフ)

疲れていると小説は読めない。小説は勝手に進んでくれなくて、ぼくらが能動的にアクセスしない限りそこに示された世界は絶対に立ち現れない。しかしどれだけ疲れ、どれだけつらいときでも唯一読める小説が本書だ。果てしなく長い1日に挟まれた短い10年がここにはあり、小説を読んでいるといういま、この瞬間が無限に展開されている。

スチール・ビーチ(ジョン・ヴァーリィ)

事実上の不老不死が実現し、人類はセントラル・コンピュータ(CC)に管理されている世界を描いた長編SF。絶版となっているこの小説をあえて2019年のいま紹介したいのは、ヴァーリィの途方もない想像力が現実に拮抗しようとしているからだ。性別や寿命という身体的拘束がテクノロジーにより解除された世界で、ぼくらがあたらしく考えうることについて、この小説は固有の皮肉と共に描き出している。

ディアスポラ(グレッグ・イーガン)

現代SFの最重要作家といわれるグレッグ・イーガンの代表作。ハードSFと呼ばれる現代科学の雑多な知識を駆使して緻密に構築された彼の作品群は、それゆえに難解と呼ばれ、本作はその中でも特に「難しい」と感じるかもしれない。しかし、その難しさのなかには自然科学の詩情がふんだんに盛り込まれている。科学の言葉が、事象の説明が持ち得る美的感覚に触れることができる稀有な作品だ。

死体展覧会(ハサン・ブラーシム)、ハイファに戻って/太陽の男たち(ガッサーン・カナファーニー)

まだじゅうぶんに生きられるはずの人間が、誰か他の人間の悪意によって命を落とすということについて、平和な国に生きているぼくらは強いフィクションを感じるかもしれない。ブラシームとカナファーニーの作品は、ぼくらにとって虚構性が強いと感じられる物語が、ひとつの「現実」として描き出されている。「人が死ぬ」という現実を日本に生きるぼくらはどう受け止めることができるのか?

ラテンアメリカ五人集、20世紀ラテンアメリカ短編集

20世紀ラテンアメリカ文学では、しばしば現実離れした出来事が日常と分かち難いで描かれる。そのことについてかつてある作家の知人が「現実を生きるために、彼らは現実を超える想像力を持たなければならなかった」といったことを強く記憶している。そんなラテンアメリカ文学に触れる最初の本としてこの2冊をおすすめしたい。


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