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「日本のバーテンダーはニューヨークを生きている」

僕はニューヨークに行ったことがない。

だが、日本に居住しながらおよそ27年あまり、ニューヨーク時間を過ごしているのである。
断っておきたいが、これはドヤ自慢が言いたいわけではない。むしろその逆さまで、愚痴や泣き言に限りなく近い話である。

まず、僕のタイムスケジュールを聞いていただきたい。僕の仕事の就業時間は20:00〜05:00である。店の買い物や準備などを考慮すると、動き出すのは18時ごろ。

概ね平均的な一般サラリーマンの就業時間は9:30〜17:30くらいだろうから、仕事開始時間は12時間程度の誤差がある。いわゆる、これがニューヨーク時間というやつだ。27年もの時間が経っているのだから、あえて今更書くことではないと思うのが、これを書かなければ話が進まないのである。
何故ならば、西村京太郎の時間トリックではないが、この時間誤差をベースにした様々なエグい事件が次々と勃発するからである。

まず、バーテンダーはいつ眠っているのだろうか?特別な予定が入っていない日のタイムスケジュールを書いてみたいと思う。

朝5時に店を閉め、片付けや売上の計算、発注などを済ませて店を出るのが大体6時ごろだ。そして、仕事の後は腹が減る。若い頃は元気が有り余っていたから、タクシーを飛ばして築地に出向いてコスパのいい寿司屋に行ったり吉野家の一号店に行ったり、渋谷や六本木に出かけて朝飯を摂っていた。
だが、いまは真直ぐに自宅に帰ることが殆どである。もはや胃腸の悲痛な訴えや沼のような睡眠欲が僕のバイタリティーを上回っている。
自宅は店の近くにあるので6:30には帰宅ができる。
簡単な食事をとり、シャワーに入り(酒が入っている時は入れない)布団に入るのは8時である。これが平均的な就寝時間だ。
そして、できれば6時間は眠りたいところだから、起床は14時ということになる。余談だが、バーテンダーはあまり太陽の光を浴びないのだ。光合成をしない植物はすぐにダメになってしまうという話を聞いたとき、同じ生物としてゾッとした事がある。さて話をもとに戻すが、これを日本時間に置き換えてみてほしい。すると、面白いことがわかる。世の中に、夜の8時に寝る人がどれだけいるだろうか。
そして、真夜中の2時に起床する人は、どれだけいるだろう。
安直な想像をすると、豆腐屋や新聞配達、あるいは漁師、常駐の警備員、24時間で稼働している職業の方々は他にもあるのだろうが、そんなに多く存在しているわけではないだろう。
そうなのだ、バーテンダーは、日本時間に置き換えると豆腐屋さんや新聞配達や漁師と同じ時間を眠っているのである。ただそこには、12時間というズレがあるだけだ。ニューヨーク時間……。

豆腐屋さん達は日本時間の中を生きているから、感心されたり敬服されたりしている。テレビのロケ番組なんかで、よく「めちゃめちゃ朝が早いっすね、僕は無理ですこの生活」だの、「早起きは三文の徳とはよく言ったものです」なんて上げ祀られる。本心かどうかは定かではないが、ロケを体験しているタレントが根を上げている様子がよく映っている。
バーテンダーは感心されたり敬服されたりはしない、なぜなら。
それは、日本時間を生きていないからに他ならない。

日本にいながらニューヨーク時間で生活するということのもっとも辛いところは、人間の日常生活のほとんどがお天道様と共にあるように回っている、ということに尽きるのである。
銀行の支払いや病院、業者との打ち合わせといったお昼ごとがある時は、眠らずに午前中に済ませるようにしている。予約時間や先方の都合で午後になった時なんかは、張り倒したくなる衝動を抑えるだけで精一杯なのである。
いつだってお天道様が優先される。
未だかつて、「仕事が終わるのが朝の5時ですので、朝6時に打ち合わせをお願いします」などと言ったことはないし、僕たちの都合を考慮して、6時に伺います!という粋な時間指定をしてきた担当営業も存在しない。
深夜の営業中に冷蔵庫やトイレが故障したら、もはやどうしようもなくお手上げ状態である。そして、9時まで待ってから電話をかけるのである。

お客さんとの約束で、恐ろしいのはゴルフである。東京から1時間程度の場所にある神奈川県や千葉県が多いのだが、出発は仕事終わりの6時くらいだ。
無論、運転の場合は酒は飲まないが、仕事終わりの身体で運転と18ホールは厳しくなってきた。それでも楽しいからゴルフはやめられない。そして、帰りの運転が睡魔地獄、その後の打ち上げと続いて、店を開ける。まさに純然たる不眠の荒行である。
10年前、8月の炎天下のなか、この荒行を3日間続けたことが1度だけあった。
3日目のラウンドは、スコアがボロボロだったが、もうそんなことはどうでもよくなっていると、前半のどこかのホールで熱中症のような症状でばたりと倒れたそうだ。5分ほど横になり日陰で水を飲むと、たちまち元気になった。
どうやら、熱中症ではなく睡眠不足だったようだ。あの事件から、連チャンゴルフは封印することになった。

これだけ愚痴るのだから、バーテンダーなんか辞めちまえよ!と思うところだが、それがまったく辞められないのである。僕は日本のニューヨーカーとしてどうにか生きて行きたいのである。
皆さんも、お昼間にフラフラと虚な瞳で街を歩いている酒臭い人を見かけたら、それは業者の都合で眠れなかったバーテンダーかもしれない。その時は優しく笑ってやっていただきたいものである。


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