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かぶと煮のお化粧

新型コロナウイルスにかかった人の症状として、味覚や嗅覚の異常というのがあることが知られるようになった。

食いしん坊の私にとって、味覚と嗅覚がやられるというのは、おそらく、もうこれ以上ないというくらいに悲しいことに違いない。その症状になりたくないから、コロナにはかからないように極力気をつけている、といっても過言ではない。

だから、というわけではないけれど、なじみの居酒屋でも自分の家でも、食べたり飲んだりするときには、お酒や料理の香りをこれまで以上に楽しむようになった。

とりわけ、私が大好きなのは、柚子の香りである。

先日、なじみの居酒屋で「ウメイロ」という魚のかぶと煮がメニューに載っていた。この魚は、東京なら八丈島あたりでとれるものだそうで、珍しい上に味がよいから、高級魚として扱われているらしい。

そうと聞いたら、食べずにはいられない。私は、女将に「ウメイロのかぶと煮」を注文した。

その日は結構寒かったので、料理ができるまでの間、日本酒をお燗にしてもらい、それを飲みながら待った。日本酒は、お燗にすると香りが立つ。今よりも若かった頃の私は、そのお燗酒の香りが苦手なこともあった。

「ああ、そういうお客さまも多いですよ。でも、ハマるとハマりますよねぇ」

かぶと煮をつくりながら、女将はそう言って笑った。なにを隠そう、私はお燗酒にハマったひとりである。冬はもちろん、夏でも、この店にお燗の日本酒を飲みに来ることがある。それは、お燗酒に合う料理をつくってくれる女将の影響も大きかった。

「はい、お待たせしました。できましたよ」

しばらくして、ウメイロのかぶと煮ができあがった。茶色の和皿に盛り付けられた「おカシラ」には、その出汁で煮こまれた大根が添えてあった。

「おお~、おいしそう!」

カウンター越しに、魚の出汁のいい香りが漂ってくる。私は早く食べたくて、女将の手元をのぞき込んだ。

「ちょっと待ってくださいね。これが、仕上げ」

そう言うと女将は、まな板の横に置いてあった黄色い物体を取り上げ、小さく皮をむき、その皮をさらに細かく刻んだ。

黄色い物体は、柚子であった。

女将は、細かく刻んだ柚子の皮をぱらりと、かぶと煮の上にのせた。薄い茶色に煮込まれたかぶとの上に、黄色い柚子の皮が放たれると、その部分だけ色がついて、華やいで見えた。

「はい。あったかいうちに召し上がれ」と女将は、かぶと煮を私に差し出した。受け取った私は思わず、和皿から立ちのぼる湯気を深く吸い込んだ。

柚子の皮で華やいだのは、見た目だけではなかった。その香りも、先ほどまでの魚の出汁の香りだけではなく、柚子の香りをまとった華やかなものになっていた。

「柚子の皮があるのとないのとじゃ、全然違うね」

「そうですねぇ。かぶと煮って、ともすればちょっと荒っぽい見た目になっちゃうけど、柚子の皮があると、見た目も香りもおしゃれになるでしょ」

「たしかに。なんだか、華やかになるみたい」

「そうなんです。男まさりの女の人が、ちょっとお化粧すると、とってもきれいになるのに似てるかしらね」

そう言うと女将は、フフフと笑って、忙しそうに次の料理をつくりはじめた。


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