見出し画像

有線イヤホンと原稿

その日の私は、焦っていた。

原稿の締め切りが翌日に迫っているというのに、ちっとも筆が進まない。いや、今は原稿を書くのに筆は使わないから、キーボードを打つ手が進まない、といった方がいいだろうか。

ああ、どうしよう……。

焦れば焦るほど、キーボードを打つ手が遅くなる。朝から自宅でパソコンに向かっているのに、まだほとんど進んでいない。

その原稿は、すでに取材したインタビュー内容をまとめるもので、インタビュー自体はとてもおもしろかった。だから、それをまとまるだけ。ああ、それなのに、私の仕事の遅さといったら…。

仕方がないので、私はパソコンを持ってコワーキングスペースへ移動することにした。

集中できないとき、私はよくそのコワーキングスペースを使っている。そこは会話が禁止なので、室内がものすごく静かだ。受験生や資格試験間近の人など、本当に切羽詰まった人たちが多いので、自分もやらざるを得なくなる。その人たちからものすごく静かに発破をかけられているみたいになるのだ。

パソコンとスマホ、財布など最低限の荷物を持って、マスクをして家を出た。自宅から最寄り駅まで徒歩で約10分、そして電車に乗って約15分。この電車の中で私は、あることに気がついた。

ああ、そうだ。取材したインタビュー音源をもう一度聞いて、あの時に「おもしろい!」と思った感情を呼び起こそう。そうすれば、書けるはず。インタビューの音源も、このパソコンに入ってるし。

我ながら名案だと思いながら、コワーキングスペースの最寄り駅へ着いた。目的地は、駅からすぐである。

駅に近いビルの2階にそのコワーキングスペースはある。あらかじめ借りていたカードキーを使って、ドアを開ける。中に入ると、いつものようにシーンとしている。時々、パソコンのキーボードをたたく音や、文房具を使っているらしいカチャカチャという音が聞こえるだけだ。

私は窓際の席に荷物を置き、バッグの中からパソコンを取り出した。電源を入れる。明るくなった画面に、ついさっきまで書いていた原稿と、取材した音源が入ったファイルがあるのを確認する。

よし。間違いない。音源も、ある。電車の中でに思いついたように、インタビュー音源をもう一度聞いて、やる気を呼び起こすのだ。

ものすごく静かな室内で音源を聞くのだから、もちろんイヤホンがいる。バッグの中からイヤホンを出す。

イヤホンを、出す。あれ?イヤホンは??

パソコンを入れているバッグの中に、私はいつもイヤホンを入れている。正確には、パソコン用バッグに付いているポケットに入れている。だがこの日、なぜかそのバッグの中にも、バッグのポケットにも、イヤホンは見当たらなかった。

え?なんで?必要なときに限って、なんでないの?

仕方がないので「音源をもう一度聞く」という計画をあきらめ、パソコンの中にある原稿を開いて、キーボードを打とうと思った。

だが案の定、すぐには進まない。このまま時間だけが過ぎていく感じがする……。

私はパソコンをスリープモードにした。そして再度バッグに入れると、一旦、コワーキングスペースを出ることにした。

イヤホン、買ってこよう。イヤホンさえ手に入れれば、きっとスムーズに原稿を進めることができるはず。今どきイヤホンなんて、コンビニでも売ってるんだから。

そう思って、まずは最寄りのコンビニへ行った。お昼を少し過ぎていたが、まだお弁当やお惣菜を買う人が多い。そんな中、私はまっすぐに文房具やスマホ用品が並ぶ棚を目指した。

ボールペン、ハサミ、電池、充電器、何かのコード……。あ、あった!イヤホン!

手に取ってよく見ると、パッケージに「ワイヤレス」「Bluetooth」という文字が並んでいる。さらに値段を見て、私は静かにそのイヤホンを棚に戻した。コンビニで売っているにもかかわらず、結構、いいお値段だったのだ。

なんでコンビニで売ってるのに、ワイヤレスだのBluetoothだの、お高いイヤホンしかないんだ?私が求めているのは、有線でいいから、もっと安いイヤホンなのに……。

ちょっとがっかりしたと同時に、自分が時代の流れに乗っていない気がした。コンビニは売れるものしか棚に置かない。世の中的には、というかコンビニをよく使う人たちにとっては「イヤホン=ワイヤレス」とか「イヤホン=Bluetooth」というのが当たり前になっているのだろう。

とはいえ、そのときの私はそんなに高性能なイヤホンを必要としていなかったし、イヤホンは家に戻ればいくつもある。ムダづかいはしたくなかったから、気を取り直して有線の安いイヤホンを探しに行くことにした。

そのコワーキングスペースから少し歩けば、大きい家電量販店がある。そこならきっと、安いイヤホンがあるはず。最初から、コンビニじゃなくて家電量販店に行けばよかったんだな。

原稿を書くために出てきたのに、イヤホンを探してウロウロすることになるなんて……。そう思ったが、このままコワーキングスペースに戻っても、おそらく原稿は進まないだろう。まったく、私というヤツは……。

家電量販店に着くと、1階はほとんどがスマホやその関連機器の売り場だった。もちろん、イヤホンもあった。

ああ、よかった。1階にあるのね。わざわざエレベーターやエスカレーターに乗らなくて済むわ~。

そう思って、イヤホン売り場に足を踏み入れた。iPhone用、android用、ワイヤレス、Bluetooth……。

あれ?有線イヤホンは?っていうか、パソコンでも使えるイヤホンは?

ない。ないのである。ここにも、有線イヤホンは見当たらなかった。よく見れば、結構広いその売り場には「ワイヤレスイヤホン」と書いてある。有線イヤホンはないのか……。

店内の総合案内板を見て、有線イヤホンがありそうな売り場を探す。「オーディオ」という売り場を見つけた。きっと、ここなら。

その家電量販店のオーディオ売り場は、4階であった。エスカレーターで4階まで上がる。ようやく「有線イヤホン」の文字を見つけた。

あった~!!よかった!

有線イヤホン売り場に行くと、いろんなイヤホンがズラリと並んでいた。お値段はピンキリである。しかし、平均的にはワイヤレスイヤホンの3分の1、安いものでは10分の1くらいのものもあった。

ほら、やっぱり。全然お値段が違うじゃないの。

どれがいいんだろうと、ちょっと悩んだが、ゆっくり選んでいるヒマはない。私は原稿を書くために、イヤホンが必要なのだ。1,000円前後のもので、デザインと色が好きなものを手に取り、レジで会計を済ませた。

は~。やっとこれで、原稿が書ける。

私は急いでコワーキングスペースに戻った。相変わらず静かな室内で、キーボードをたたく音や、文房具のカチャカチャという音しか聞こえない。

バッグからパソコンを取り出して立ち上げた。真新しいイヤホンのパッケージを開けて、ジャックに差し込む。音源のアイコンをクリックして、再生する。

イヤホンから、取材相手の声が聞こえてきた。時折、相手に質問する私の声も聞こえる。

そう、そうだった。あのとき、あの人の話はこんなにおもしろかったんだ~。

私はようやく、軽快にキーボードを打ち始めた。

この記事が参加している募集

ライターの仕事

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?