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なぜ多様性の排除はなくならないのか?

多様性を受け入れる、ということについて、少し考えていたことを書いてみます。

人類の歴史を紐解くと、多様性を受け入れるとは、隣のムラや、違う人種や民族、国々との交流でした。もともと世界のどこでも、初期的な人類は、小さなコミュニティを形成し、その中で共同生活を行っており、それはつまり隣のコミュニティとの差別化を意味し、時に争いを生んでいました。食料が安定的に十分に得られない中、自身の利益を最優先する力学が働く結果であることは想像に難くありませんが、もう一つ重要な観点は「疫病」であったと思います。

人には「免疫」という機能があり、病気やウイルスに対抗することができます。そしてこの免疫機能は、人類の長い歴史の中で、大量の「自然淘汰」の結果として得た、進化の賜物です。つまり、地理環境や文化ごとに免疫は独自の進化を遂げており、所属するコミュニティが異なれば、持っている免疫が異なってくることを意味します。

また、生き物には、微生物やウイルスの運び屋という側面があり、身体には常時何億という微生物やウイルスがいます。それを我々が意識せずにいられるのは、彼らが非常にミクロなサイズなことに加え、我々が免疫を持っているおかけで、身体に不調をきたすことなく共存できるからです。

ですが、異なるムラや民族との接触においては、時として彼らに免疫のないウイルスを運び込むことになります。かつてヨーロッパ人がアメリカに上陸した際、彼らが持ち込んだ天然痘の免疫を、アメリカ先住民はまったく持っていませんでした。その結果、酷いところでは死亡率は9割に及び、絶滅した部族も少なくないといいます。現代社会においても、アフリカや南アメリカの未接触部族と呼ばれるような、現代社会と接点を持たない民族たちは、異なるコミュニティと接触することで、ウイルスによって一気に絶滅することがあり、それもあってなかなか文明と接触しないという話もあります。

規模はさておき、太古から、異なるコミュニティとの接触には、こうしたリスクが伴っていたわけで、ムラや民族が、異なるコミュニティの他者を排除してきたことは非常に合理的であることがわかります。それは遠い昔や未開の地にかぎった話ではなく、今回の新型コロナウイルスの流行における、初期のアメリカでのアジア人差別や、日本の各地方での東京人差別といった身近な出来事についても、その背景には同様の排除の力学を感じるのです。

ですが、一方で、それを克服してきたのが人間だともいえます。医療技術や科学技術の進歩によって、人間はこの排他の構造を極小化し、他者との交流を図り、さらに知識や影響の幅を広げ、進化してきたわけです。(もちろん負の側面として、免疫獲得の中で自然淘汰されていった人々の存在を無視するわけではありません)

人間がただの動物であったなら、排他の構造は変わらなかったことでしょう。そうした意味で、多様性の受容とは、人間のみが、人間だからこそ行う営みだとも考えられます。

多様性の受容や、ダイバーシティが叫ばれる昨今、こうした歴史的な側面や、より生物学的な側面に目を向けると、多様性を考えるとき、それは、「あなたは動物ですか?人間ですか?」と問われている気すらしてくるのです。

多様性や、多様性を実現する上での排除の存在は、色んなところで見聞きしますが、その背景にある疫学的な側面はあまり語られない気がしたので、お休みの日に考えた、多様性に関するお話でした。雑文失礼しました。

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