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相手を理解しようとする心

最近見たドラマで、「僕は、あなたが抱えてきた痛みを想像することで、自分が見えている世界が2倍になった」という、素敵な言葉がありました。

しばらく前には、「あなたの痛みは僕には分かりません。でも、分かりたいと思っています」と言っていたので、それから相手の痛みを想像し、理解しようとしてきたのでしょう。

それが、思いやりというものですね。

広辞苑によれば、思いやりの定義は、「思いやること。想像」、「相手の立場や気持を理解しようとする心」などとなっています。

これは、相手の痛みに共感することだけではなく、人間関係全般に言えることです。

自分の目ばかりではなく、相手の目を通して物事を見てみるなら、見えている世界が2倍になるし、相手のことをよりよく理解できるようになります。

以前、「人間関係のトラブルは、大半が思い込みや誤解が原因」と書いたことがあります。(『思い込みと誤解』)

思い込みや誤解を防ぐには、相手を理解しようとする心が大切です。

人間の理解力や記憶力は完全ではないので、特に、相手の人が「そんなことを言った覚えはない」と言うのであれば、自分の誤解か記憶違いの可能性はあります。

相手の言ったことを理解する上で、覚えておくと役立つことを幾つか挙げたいと思います。


●同じ言葉が複数の意味を持つことや、たとえとして用いられることがある。

[イエスは弟子たちに]言われた、「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く。」 すると弟子たちは言った、「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう。」 イエスはラザロが死んだことを言われたのであるが、弟子たちは、眠って休んでいることをさして言われたのだと思った。するとイエスは、あからさまに彼らに言われた、「ラザロは死んだのだ。」(ヨハネ11:11-14)

眠りが死を意味することもあるのは、日本語でも同じですね。

このように、相手との会話を続けることで、誤解が解けることもあります。


●その人の発言が、心の内を正確に表しているとは限らず、言葉足らずだったり、言い間違えたりすることもある。

わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。(ヤコブ3:2)

あいにく、その相手も、私たち自身も、まだまだ完全ではありません。


●その発言が、心の内のすべてではない。

人の心にある計りごとは深い井戸の水のようだ、しかし、さとき人はこれをくみ出す。(箴言20:5)

深い井戸の水のような心の思いと比べると、口から出る言葉は、ほんのわずかなものです。

いい会話を続けることによって、もっと多くをくみ出すなら、相手の言葉の真意を誤解していたことに気づくかもしれません。


●私たちが覚えているのは、相手の言葉の一部だけかもしれない。

聖書に「神はない」と書かれていることを知っていましたか。

愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。(詩篇14:1)

(この場合の愚か者とは道徳的な意味であり、「不道徳な者」を指しています。)

たしかにこの詩人は「神はない」という言葉を記しましたが、もし私たちがその前後を覚えていないとしたら、それはまったくの誤解というものです。


●どんな発言にも、背景や文脈がある。

愚かな者にその愚かさにしたがって答をするな、自分も彼と同じようにならないためだ。
愚かな者にその愚かさにしたがって答をせよ、彼が自分の目に自らを知恵ある者と見ないためだ。(箴言26:4-5)

一見、矛盾した助言のようですが、よく読むと、その状況に応じてすべきことは変わるということが分かります。

その状況だからこその発言や行動というものがあるので、その人の言動が矛盾しているように見えても、必ずしもそうとは限りません。


このように、人の真意を誤解しやすい私たちにとって、大切なのは相手を理解しようとする心であり、相手の立場や気持ちになって考えることです。

自分だけではなく、相手も「理解されたい」と望んでいるのですから、いい人間関係の秘訣は、互いに進んで相手を理解しようとすることだと言えるでしょう。

ああ主よ、わたしに
慰められるよりも慰めることを
理解されるよりも理解することを
愛されるよりも愛することを
求めさせてください。
(『フランチェスコの平和の祈り』)
何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。(マタイ7:12)


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