しんれん

仏教徒/私的仏教ノート・メモ/仏教学部卒

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仏教徒/私的仏教ノート・メモ/仏教学部卒

最近の記事

仏教における五逆罪の種々

 浄土門の教えでは、五逆の罪はよく取り上げられる事項であり、『観無量寿経』においても「下品下生」の凡夫というのが五逆罪の者である。ここでは自分自身の学びとして今一度五逆罪を考えてみたい。  まず永観律師の『往生十因』によれば五逆罪というのは、 もし淄州によるに五逆に二つあり。 一つには三乗の五逆なり。いはく、一つにはことさらに思うて父を殺す、二つにはことさらに思うて母を殺す、三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、四つには倒見して和合僧を破す、五つには悪心をもつて仏身より血を

    • 物を大切にする精神

       日本人には古くから物を大切にする心があるのだが、その精神の根本にはどのような思想があるのかということがこれまでよくわからなかった。そこで先人の仏教者の方々の言葉なりを紐解くとそこには物を大切にする精神の由縁の一端を垣間見ることができる。  他の国からすれば日本人が物を大切にする精神を理解できないかもしれないが、何百年と日本人の心に息づいている考え方がある。しかしながら、近年の日本人はそうとも言えなくなってきているので何とも言えないが。  先ずは明治時代の浄土宗僧侶・山崎弁

      • 仏教の先祖供養について

         日本仏教では先祖供養の法要を定期的に厳修することは周知の事実であるが、よく巷で云われているのは、本来の仏教には先祖供養など関係はなく、日本の俗習に過ぎないということを時折耳にする。 しかし、原始仏典の『遊行経』(『涅槃経』)を伺うと、釈尊が褒め讃えるヴァッジ族の行う七不退法の中に先祖供養が説かれている。  経典では阿闍世王がヴァッジ族を滅ぼそうと計画を立てたところ、釈尊からやめておけと忠告を受けるのであるが、その理由に出てくるのがヴァッジ族の七不退法である。 要約すると以

        • 仏教僧 弁栄上人のユニークな執筆態度

          文章を書くということ noteを始めその他のSNS・ブログなどで文章を書く理由といえば、その目的は誰かに読んでもらって評価を得たいとか、ただ何となく書いてみたなど各人様々であろうかと思う。目的は様々であるが、大抵は何れも発表をする前提であることには相違がないと伺える。現にnoteやSNS・ブログには多くの文章が公開されていることは実際に見て取れる。例外として、私的な日記帳においては全くその限りではないであろうと思うが。   さて、ここに明治〜大正時代にかけて活躍した浄土宗僧

        仏教における五逆罪の種々

          「一代の聖教皆尽て、南無阿弥陀仏になりはてぬ」(一遍上人) 浄土門の信仰はこれに尽きる。南無。

          「一代の聖教皆尽て、南無阿弥陀仏になりはてぬ」(一遍上人) 浄土門の信仰はこれに尽きる。南無。

          聖ヴィヴェーカーナンダと親鸞上人の決定信

          インドの聖ヴィヴェーカーナンダは万国宗教会議で一躍時の人となった素晴らしい宗教者であるが、彼の言葉の中に大変感銘を受けたものがある。 それが次のような発言である、  上記の聖ヴィヴェーカーナンダの神に対する決定信が窺える。神と真理だけを支柱とするのだという凄まじい信仰心で、完全なる絶対他力である。  少し偏った考え方に見えるが徹底しているところが他の追随を許さない宗教者としての決意が垣間見えて思わず唸ってしまう。  この聖ヴィヴェーカーナンダの言葉から日本の親鸞上人の言葉

          聖ヴィヴェーカーナンダと親鸞上人の決定信

          信仰生活は模倣を否定す

           先人の仏教者の信仰をお手本として、自らが信仰生活を送ることは、彼等の信仰生活をそのまま真似ることでは断じてない。彼等に倣うとは、どこまでもどこまでも自分しか歩めぬ独自の信仰生活を送ることである。 真宗の親鸞上人の言葉  親鸞上人は『歎異抄』の中で、上記のように「偏依法然」を標榜しているにもかかわらず、実際親鸞その人の信仰生活は、師である法然上人の持戒堅固による念仏の生活に比して、肉食妻帯による念仏の生活を送っている。 では、はたして両者は正反対の生活であるが、親鸞上人は

          信仰生活は模倣を否定す

          日蓮上人に学ぶ礼節を重んじた批判方法~対 蘭渓道隆上人・良観房忍性上人~

          日蓮上人の批判方法と現代の批判方法  現代はSNSなどで手軽に自分の意見を述べたり、相手と意見交換ができたりと便利ではあるが、昨今の事情を顧みると誹謗中傷や炎上が甚だしい。  批判的意見ならば良いと考えるが、その多くが誹謗中傷の類いであり、よしんば批判的意見であっても相手への敬意や礼節を大切にしていることはほとんどないと見受けられる。  そこで、鎌倉仏教の祖師のお一人でもあり、批判的手法の激しかった日蓮上人の批判の仕方を見てみたい。  日蓮上人は、鎌倉仏教の先人の祖師方や同

          日蓮上人に学ぶ礼節を重んじた批判方法~対 蘭渓道隆上人・良観房忍性上人~

          聞法の意義~仏の教えを聞く心得~

          教えを聴聞するとはどういうことなのか  一体仏教徒はなぜ仏の教えを聞くこと(仏典の読むことも含む)を重要視するのかを考えてみたい。チベット仏教の中興の祖とされるツォンカパ大師の説示を伺うと次のように云っている、   上記の言葉で先ず『ウダーナ』からの引用があるが、これは以下の経典からの引用であろう。  聞法の実践は経典に説かれるように、仏法を知る、廃悪修善に勤める、非利益なことを捨てる、涅槃の獲得の四つのためにあるのだという。  ツォンカパ大師は四つを釈して、善悪の選択

          聞法の意義~仏の教えを聞く心得~

          仏弟子・迦旃延尊者に学ぶ仏教的生き方

          迦旃延尊者  迦旃延尊者はインド西部のアヴァンティ国の出身で、国王チャンダパッジョータの帝師(皇帝の師)の子として生を受けた方。 ある時王の命令でお釈迦様を国にお招きするにあたって七人の王臣と共にお釈迦様のもとへ派遣されたが、仏の威光にうたれそのまま仏弟子となられた。  十大弟子の一人で、教理上の見解では弟子中最も優れた僧として知られ、「論議第一」と謳われた阿羅漢の聖者である。その尊者の教えに触れてみる。 『長老偈』に説かれる迦旃延尊者の詩偈『長老偈』に記されている迦旃延尊

          仏弟子・迦旃延尊者に学ぶ仏教的生き方

          仏教の肉食について~肉食を肯定する原始仏教と肉食を否定する大乗仏教~

          仏教の肉食 仏教ではよく肉食妻帯の僧などと云って仏教僧の肉食を揶揄するが、それは大乗仏典の一部の経典で云われていることであり、原始仏典においては肉食は過去仏である迦葉仏によって問題なしと説かれている。 原始仏教の肉食  原始仏典の『スッタニパータ』中に収められている「なまぐさの経」では以下のようにして肉食は肯定されている、  以上のように「なまぐさ」というのは肉食ではなくして、慈悲心のない様や嘘偽りの行為をいうのであって、問題とはされていない。  問題なのは、仏を始めと

          仏教の肉食について~肉食を肯定する原始仏教と肉食を否定する大乗仏教~

          自灯明・法灯明の本当の意味

          「自灯明・法灯明」の言葉は原始仏典の『涅槃経』に説かれているものであり、有名な経典の文句である。しかしながら、この教えについてはよく聞く言葉でありながら、表明上の言葉をさらうだけで一体どういう内容なのかをあまり耳にすることがない。  今一度経典を紐解いて「自灯明・法灯明」とはどのような教えなのかを窺ってみたい。  原始仏典の『涅槃経』に説かれるのは次のような文句である、  これは原始『涅槃経』の有名な文句であるが、上記釈迦如来の仰せを伺うと、「無相の心三昧」に依るので、

          自灯明・法灯明の本当の意味

          預流果の条件~仏教における覚りの第一段階~

          預流果とは  仏教では覚りに階梯があり、上から阿羅漢(無学果)、阿那含(不還果)、斯陀含(一来果)、須陀洹(預流果)となっている。預流果とは覚りにおいて一番下の位で、信仰が決定して不退転(地獄・餓鬼・畜生という三悪道の運命はまぬかれ、 決定して正覚に向うもの)となる階梯。  いわゆる聖者の流れに入った境地で、終局的に解脱が決定した状態になるをいう。ここまでくれば修行も先ずは安心といったところである。  では一体この預流果(須陀洹)の境地に至るにはどのようなことを行えばよいのか

          預流果の条件~仏教における覚りの第一段階~

          この身体は誰のものでもない~諸法無我~

          諸法無我『雑阿含経』  仏教では自我を立てることを否定している。およそ現代でいうところの個性や自分を持つなどの考え方とは反対の考えである。自我を立てることは苦を生み出してしまう故に、仏教では無我を観じ苦を発生させないようにする。  『雑阿含経』に曰く、  仏は身体というのは誰のものでもなく、各自の過去世の業が相続して、その業の果報によって現在の身体があるに過ぎないとしている。もし、自分や他人のものであれば身体をコントロールできるはずであるが、生老病死のいずれも制御できず

          この身体は誰のものでもない~諸法無我~

          『正法眼蔵』の「道心」を読む~道元的五種正行を考える~

           道元上人著『正法眼蔵』の「道心」は、称名念仏(弥陀仏への念仏ではない)が中心であり、そのことは善導大師や法然上人の浄土門の「五種正行」, 即ち「読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養」に類似しているところが少なからずあるので、「道元的五種正行」を考えてみたい。  先ず「道心」では次の文言から始まる、  道元上人は、何よりも先ずは道心を発すことが大事であり、それが仏教信仰における第一歩であるとしている。  道心というのは菩提心のことだが、道元上人によれば道心(菩提心)を領解してい

          『正法眼蔵』の「道心」を読む~道元的五種正行を考える~

          第五の光は存在しない

          四つの光明 『サンユッタニカーヤ』(『相応部経典』)の中に次のような仏の言葉がある、  世界には太陽・月・火・仏の四つの光があって、仏はそれら四つの中でも最高の光であると経典では説かれている。  太陽・月・火が光を放っていることは日常生活の上でもよく理解できるが、仏が無上の光であるということはどういうことなのか探ってみたい。  上記の『相応部経典』では仏の光がいかなるものなのかの解説がないが、『大日経疏』では仏の光について説かれている、  『大日経疏』では仏の光は「智慧

          第五の光は存在しない