しんれん

仏教徒/私的仏教ノート・メモ/仏教学部卒

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学士・修士・博士における学識の深さ ~仏教学を基準にして~ 附 学識と信仰 慧能と神秀の学識・信仰

大学の学位 大学においてその修了課程によって学士・修士・博士などの学位が授与されることは周知のことと思う。ではそれら各学位の学問的見識の深さはどのように据えることがてきるだろうか。私は文系の仏教学以外は知らないのでここでは仏教学を基準にした私見を述べてみたい。  私自身は某仏教系の大学(仏教学部)に社会人になってから入学し卒業したのであるが、入学時に各学位における学識レベルについて学内のある先生が、学士から修士、博士というように専門的レベルが上がっていくことを以下のように端的

    • 信仰生活は模倣を否定す

       先人の仏教者の信仰をお手本として、自らが信仰生活を送ることは、彼等の信仰生活をそのまま真似ることでは断じてない。彼等に倣うとは、どこまでもどこまでも自分しか歩めぬ独自の信仰生活を送ることである。 真宗の親鸞上人の言葉  親鸞上人は『歎異抄』の中で、上記のように「偏依法然」を標榜しているにもかかわらず、実際親鸞その人の信仰生活は、師である法然上人の持戒堅固による念仏の生活に比して、肉食妻帯による念仏の生活を送っている。 では、はたして両者は正反対の生活であるが、親鸞上人は

      • 日蓮上人に学ぶ礼節を重んじた批判方法~対 蘭渓道隆上人・良観房忍性上人~

        日蓮上人の批判方法と現代の批判方法 現代はSNSなどで手軽に自分の意見を述べたり、相手と意見交換ができたりと便利ではあるが、昨今の事情を顧みると誹謗中傷や炎上が甚だしい。  批判的意見ならば良いと考えるが、その多くが誹謗中傷の類いであり、よしんば批判的意見であっても相手への敬意や礼節と大切にしていることはほとんどないと見受けられる。  そこで、鎌倉仏教の祖師のお一人でもあり、批判的手法の激しかった日蓮上人の批判の仕方を見てみたい。  日蓮上人は、鎌倉仏教の先人の祖師方や同時

        • 聞法の意義~仏の教えを聞く心得~

          教えを聴聞するとはどういうことなのか  一体仏教徒はなぜ仏の教えを聞くこと(仏典の読むことも含む)を重要視するのかを考えてみたい。チベット仏教の中興の祖とされるツォンカパ大師の説示を伺うと次のように云っている、  上記の言葉で先ず『ウダーナ』からの引用があるが、これは以下の経典からの引用であろう。  聞法の実践は経典に説かれるように、仏法を知る、廃悪修善に勤める、非利益なことを捨てる、涅槃の獲得の四つのためにあるのだという。  ツォンカパ大師は四つを釈して、善悪の選択

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        学士・修士・博士における学識の深さ ~仏教学を基準にして~ 附 学識と信仰 慧能と神秀の学識・信仰

          仏弟子・迦旃延尊者に学ぶ仏教的生き方

          迦旃延尊者  迦旃延尊者はインド西部のアヴァンティ国の出身で、国王チャンダパッジョータの帝師(皇帝の師)の子として生を受けた方。 ある時王の命令でお釈迦様を国にお招きするにあたって七人の王臣と共にお釈迦様のもとへ派遣されたが、仏の威光にうたれそのまま仏弟子となられた。  十大弟子の一人で、教理上の見解では弟子中最も優れた僧として知られ、「論議第一」と謳われた阿羅漢の聖者である。その尊者の教えに触れてみる。 『長老偈』に説かれる迦旃延尊者の詩偈『長老偈』に記されている迦旃延尊

          仏弟子・迦旃延尊者に学ぶ仏教的生き方

          仏教の肉食について~肉食を肯定する原始仏教と肉食を否定する大乗仏教~

          仏教の肉食 仏教ではよく肉食妻帯の僧などと云って仏教僧の肉食を揶揄するが、それは大乗仏典の一部の経典で云われていることであり、原始仏典においては肉食は過去仏である迦葉仏によって問題なしと説かれている。 原始仏教の肉食  原始仏典の『スッタニパータ』中に収められている「なまぐさの経」では以下のようにして肉食は肯定されている、  以上のように「なまぐさ」というのは肉食ではなくして、慈悲心のない様や嘘偽りの行為をいうのであって、問題とはされていない。  問題なのは、仏を始めと

          仏教の肉食について~肉食を肯定する原始仏教と肉食を否定する大乗仏教~

          自灯明・法灯明の本当の意味

          「自灯明・法灯明」の言葉は原始仏典の『涅槃経』に説かれているものであり、有名な経典の文句である。しかしながら、この教えについてはよく聞く言葉でありながら、表明上の言葉をさらうだけで一体どういう内容なのかをあまり耳にすることがない。  今一度経典を紐解いて「自灯明・法灯明」とはどのような教えなのかを窺ってみたい。  原始仏典の『涅槃経』に説かれるのは次のような文句である、  これは原始『涅槃経』の有名な文句であるが、上記釈迦如来の仰せを伺うと、「無相の心三昧」に依るので、

          自灯明・法灯明の本当の意味

          預流果の条件~仏教における覚りの第一段階~

          預流果とは  仏教では覚りに階梯があり、上から阿羅漢(無学果)、阿那含(不還果)、斯陀含(一来果)、須陀洹(預流果)となっている。預流果とは覚りにおいて一番下の位で、信仰が決定して不退転(地獄・餓鬼・畜生という三悪道の運命はまぬかれ、 決定して正覚に向うもの)となる階梯。  いわゆる聖者の流れに入った境地で、終局的に解脱が決定した状態になるをいう。ここまでくれば修行も先ずは安心といったところである。  では一体この預流果(須陀洹)の境地に至るにはどのようなことを行えばよいのか

          預流果の条件~仏教における覚りの第一段階~

          この身体は誰のものでもない~諸法無我~

          諸法無我『雑阿含経』  仏教では自我を立てることを否定している。およそ現代でいうところの個性や自分を持つなどの考え方とは反対の考えである。自我を立てることは苦を生み出してしまう故に、仏教では無我を観じ苦を発生させないようにする。  『雑阿含経』に曰く、  仏は身体というのは誰のものでもなく、各自の過去世の業が相続して、その業の果報によって現在の身体があるに過ぎないとしている。もし、自分や他人のものであれば身体をコントロールできるはずであるが、生老病死のいずれも制御できず

          この身体は誰のものでもない~諸法無我~

          『正法眼蔵』の「道心」を読む~道元的五種正行を考える~

           道元上人著『正法眼蔵』の「道心」は、称名念仏(弥陀仏への念仏ではない)が中心であり、そのことは善導大師や法然上人の浄土門の「五種正行」, 即ち「読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養」に類似しているところが少なからずあるので、「道元的五種正行」を考えてみたい。  先ず「道心」では次の文言から始まる、  道元上人は、何よりも先ずは道心を発すことが大事であり、それが仏教信仰における第一歩であるとしている。  道心というのは菩提心のことだが、道元上人によれば道心(菩提心)を領解してい

          『正法眼蔵』の「道心」を読む~道元的五種正行を考える~

          第五の光は存在しない

          四つの光明 『サンユッタニカーヤ』(『相応部経典』)の中に次のような仏の言葉がある、  世界には太陽・月・火・仏の四つの光があって、仏はそれら四つの中でも最高の光であると経典では説かれている。  太陽・月・火が光を放っていることは日常生活の上でもよく理解できるが、仏が無上の光であるということはどういうことなのか探ってみたい。  上記の『相応部経典』では仏の光がいかなるものなのかの解説がないが、『大日経疏』では仏の光について説かれている、  『大日経疏』では仏の光は「智慧

          第五の光は存在しない

          涅槃経梵行品・称名念仏 私釈

          涅槃経梵行品の釈迦牟尼仏に対する称名念仏 涅槃経に云わく、  上記涅槃経には称名念仏、「南無仏陀」と称えることによって、仏陀が衆苦を取り除いてくれるという内容である。ここでは称名の功徳4話が説かれていて要約してみると、  第一に波羅奈国の在家信者・摩訶斯那達多が90日間において僧侶たちを招き医薬を布施していたところ、重病の僧侶がおり、医者から肉が必要なることを聞き、金銀を以って街に出て肉を求めたが得られなかった為に、自ら刀を取って自分の太ももの肉を削いで、その肉で羹を作り、

          涅槃経梵行品・称名念仏 私釈

          仏教における信仰者と宗教学者

          信仰者タイプと宗教学者タイプ  知恩寺六十六世の中島観琇大僧正の『凡夫見仏論』の序分は次のような言葉から始まる、  中島大僧正は仏教には信仰者(念仏行者など)タイプと宗教学者(仏教学者)タイプがあるとして、大僧正はその内で信仰者タイプを定機にして信仰厚き宿習の人である高い評価をされている。  大僧正は同書において、この後も宗教学者タイプには言及されず、信仰者タイプ、それも大僧正は浄土宗の方であるから念仏行者について論じておられる。  これは中島大僧正に従うならば仏教は学問

          仏教における信仰者と宗教学者

          先人に学ぶ仏教的対話術~道元上人と沢庵上人~

          発言時の二種  何か意見を述べる時には、即座に言葉にして物を言うことができる人もあり、考え抜いてからしか発言できない人もいる、また即座に言葉にできる能力を持っていても考え抜いてから述べたほうが良い場合もあり、考え抜いてからでなく即座に発言したほうが良い場合もあるので、非常に判断が難しいところではある。  こういうことがある時、私は仏教徒であるからして、先人の仏教徒達の智慧をお借りして考えるようにしている。ここでは曹洞宗・永平道元上人と臨済宗・沢庵宗彭上人のお示しからいかにし

          先人に学ぶ仏教的対話術~道元上人と沢庵上人~

          長者の十徳~仏教におけるセレブリティの条件

          長者の条件 セレブといえば著名や富豪(長者)のイメージがある。しかしながら、実際のところ現代においてはそのセレブとはどのような人物像であるのかは曖昧であり、しっかりとした条件もないようで、漠然とした形で使われるものである。例えば長者という言葉においては、長者番付なるものもあり、どれだけ稼いでいるかのみを以ってその言葉を当てている。  実は仏教においても長者の言葉はよく使われ、仏教教団を外護する在家信者としての側面を持つ。代表者としては、スダッタ(須逹)長者、チッタ(質多羅)長

          長者の十徳~仏教におけるセレブリティの条件

          身心一如再考~南陽慧忠国師の教示~

          身心一如を改めて考えてみる 以前の記事で、仏教では身心一如即ち身と心は分かつことはできないということを追求してみたのであるが、改めて身心一如について考えてみたい。  その以前書いた記事では夢窓疎石上人の語録である『夢中問答集』を基軸にして、その語録に取り上げられたる南陽慧忠国師と大慧普覚和尚の言葉、特に慧忠国師の身心一如とそれに基づく夢窓疎石上人の説示から縁生(衆縁和合の生滅する身心)と法尒(円満具足の生滅しない身心)の考え方の二種あることを結論付けた。  つまり、 仏教 ①

          身心一如再考~南陽慧忠国師の教示~