諸法無我
『雑阿含経』
仏教では自我を立てることを否定している。およそ現代でいうところの個性や自分を持つなどの考え方とは反対の考えである。自我を立てることは苦を生み出してしまう故に、仏教では無我を観じ苦を発生させないようにする。
『雑阿含経』に曰く、
仏は身体というのは誰のものでもなく、各自の過去世の業が相続して、その業の果報によって現在の身体があるに過ぎないとしている。もし、自分や他人のものであれば身体をコントロールできるはずであるが、生老病死のいずれも制御できずに苦しむのである。
したがって仏は、業によるものであれば、縁起の理法を観察して、業の基となる無明を諦めるしかないという。
『維摩経』
大乗経典にも自己の身体は業縁の産物であり、どうにもならないものであるとしている。
『維摩経』に曰く、
ここでも業によって、因縁によって現れたものに過ぎず、留まることなく、自分で支配してコントロールできないのであるといっている。
現代では自分を強く持てなどの主張もあるが、およそ仏教では自分などどうにもならない存在であることを認識せよと云っているのである。全く頼りにならない自分を頼りにしてしまうから苦悩が尽きない。
『金剛経』
真に悟った菩薩であれば、いかなる観念も持たないとされる。少しでも何かの観念を持てば執着を起こし、迷いの世界を流転してしまうのである。
『金剛経』に曰く、
自他に対していかなる観念も起こさないことが悟りであり、仏法にも非法にも執着しないとして、前述の『阿含経』と同じく誰のものでもないと観察するというのである。
結局、仏のおっしゃるところは「諸法無我」であるのだが、大乗仏教では無我を積極的に大局的に観察して「大我」や「諸法実相」とする思想もある。しかしどちらにせよ自我や他者に執着した観念は否定され、実はその否定が安楽であることを仏教は説いているようである。