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身心一如再考~南陽慧忠国師の教示~

身心一如を改めて考えてみる

 以前の記事で、仏教では身心一如即ち身と心は分かつことはできないということを追求してみたのであるが、改めて身心一如について考えてみたい。
 その以前書いた記事では夢窓疎石上人の語録である『夢中問答集』を基軸にして、その語録に取り上げられたる南陽慧忠国師と大慧普覚和尚の言葉、特に慧忠国師の身心一如とそれに基づく夢窓疎石上人の説示から縁生(衆縁和合の生滅する身心)と法尒(円満具足の生滅しない身心)の考え方の二種あることを結論付けた。
 つまり、
仏教
①縁生身・縁生心
②法尒身・法尒心
外道(仏教以外)
①縁生身
②法尒心

 仏教では諸縁和合の身心と円満具足の身心を説き、外道(仏教以外)が説く身心観は、身は無常で心は常住であるという片手落ちであり不備なるものであるということが示されるのである。
 しかしながら、慧忠国師の身心一如説が示されている典拠、『祖堂集』を拝読するとどうやら上記のような考え方ではないようなのである。

『祖堂集』における南陽慧忠国師の身心一如説

 『祖堂集』では以下のように説かれる、

又た問う、一切人の仏性は為復一種なりや、為復別有りや。師曰く、一種なることを得ず。進んで曰く、云何んが別有る。
師曰く、有る人の仏性は全く生滅せず、 有る人の仏性は半ば生滅し、 半ば生滅せず。 
進んで曰く、 誰人の仏性、 全く生滅せず、 誰人の仏性、 半ば生滅し、半ば生滅せざるや。
師曰く、我が此間の仏性は全く生滅せず、彼の南方の仏性は半ば生滅し、半ば生滅せず。
進んで曰く、和尚の仏性は若為にしてか全く生滅せず、南方の仏性は若為にして半ば生滅し、半ば生滅せざる。
師曰く、我の仏性は身心一如にして、身外無余なり。所以に全く生滅せず。南方の仏性は、身は是れ無常、心性は是れ常なり。所以に半ば生滅し、半ば生滅せざるなり。
進んで曰く、和尚の身は是れ色身なり、豈に便ち法身の不生滅なるに同じきを得んや。
師曰く、汝は今那んぞ邪道に入るを得るや。
禅客曰く、某甲早晩邪道に入りしや。
師曰く、金剛経に曰く、若し色を以て我を見、音声を以て我を求むれば、是の人は邪道を行じて如来を見る能わず、と。汝既に色もて我を見ることを作せり、豈に邪道に入るに非ざらんや。
是に於いて禅客は作礼して嘆じて曰く、和尚の此の説は、事に尽くさざるは無く、 理に周かざるは無し。 某甲若し和尚に遇わざれば、 空しく一生を過ししならん。 
(「訓注祖堂集」『研究報告 第8冊』花園大学国際禅学研究所 72頁)

現代語訳は以下、

さらに(禅客がきいた)、およそ人々の仏性は、一色でしょうか、それとも違いがありましょうか」
師、「一色にはできない」
さらに、「どんなふうに、違いがありますか」
師、「ある人の仏性は、全く生滅しない。ある人の仏性は、半ば生滅するが、半ば生滅しない」
さらに、「どういう人の仏性が、全く生滅せんのです。どういう人の仏性が、半ば生滅して、半ば生滅せんのです」
師、「こちらの方、私の仏性は全く生滅しないが、あちらの方、南方人の仏性は、半ば生滅して、半ば生滅しない」
さらに、「和尚さまの仏性は、どうして全く生滅しないのです。南方人の仏性は、どうして半ば生滅し、半ば生滅せんのです」
師、「私の仏性は、身と心が一体で、身体のほかに何も残さぬ。だから、全く生滅しない。南方の仏性は、身体は死ぬが、心性は永遠である。だから、半ば生滅して、半ば生滅せんのである」
さらに、「和尚さま、身体は(すべて) 色身です。どうして直ちに、法身が生滅しないのと、一つにすることができましょう」
師、「汝は今、よくも邪道に入ったものだ」
禅客、「某甲がいつ、邪道に入りましたか」
師、「『金剛経』に言ってある、もし色(物)によって私を見たり、音声によって、私を探したりするなら、この人は、 邪道にふみこんでしまって、如来を見ることができない。
汝はすでに色をなし(顔色かえ)て、私をみている。どうして、邪道に入らずにすむだろうか」
ここに至って、禅客は礼拝し、嘆声をあげた、「和尚さま、ただ今のお話は、事を分けて尽さざるなく、理を分けて至らざるなしです。某甲はもし、和尚におあいしなかったら、一生を棒にふるところでした」
(『大乗仏典〈中国・日本篇〉第十三巻 祖堂集』柳田聖山〔訳註〕169~171頁)

 慧忠国師は『金剛経』の説示を基にして、「私の仏性は、身と心が一体で、身体のほかに何も残さぬ。だから、全く生滅しない。」と述べ、身心は不生不滅であるとしている。さらにこの問答では、当時流行していた南方の禅門(神会上人などか?)のあり方を、身は無常で心は常住であるという外道的考え方であるとして、批判的に据えておられる。
 ここで着目すべきは慧忠国師は生滅変化する色身は考えておらず、法身のみを以て身体そのものであるというのである。

 『維摩経』にも同じような説示がある、

如来のみ身(からだ)は金剛の體(からだ)なり、諸悪已に断じて、衆善普く曾せり。當に何の疾か有るべき、當に何の悩か有るべき。(中略)諸の如来の身は即ち是れ法身なり、思欲の身に非ず。佛は世の尊為り、三界を過(こ)えたり。佛身は無漏なり、諸漏已に盡きたり。佛身は無為なり、諸数
に堕せず。此の如きの身にして、當に何の疾か有るべき、當に何の悩か有るべき。
(『國訳一切経 経集部六』大蔵出版社蔵版 331~332頁)

サンスクリット語からの訳では、

 如来のお身体は金剛のように堅固です。そこにはあらゆる不善のあとかたもなく、あらゆる善がそなわっています。どうして病気などが起こりましょうか。苦痛がどうしてありえましょうか。(中略)諸如来(の身体)というものは、法身なのであって、食物で養われる身体ではありません。如来の身体には世間を超えた身体があり、世間のあらゆる性質を超越しています。如来の身体には痛苦はなく、煩悩とはまったくなく逆な性質のものです。如来の身体は無為であって、すべての作為を離れています。大徳よ、このようなところに病気があると考えるのは不合理で、ありそうにもないことです。
(『大乗仏典7』長尾雅人〔訳〕中公文庫 55~56頁)


 これを拝読して、慧忠国師は自身を仏身(=仏性)そのものと考えて、如来の身体と同様に不生不滅の法身と観るが、冒頭にも述べた夢窓礎石上人の身心観とは少し相違があるのではないかと考えてみる。夢窓上人は身心観には縁生(えんしょう)と法尒(ほうに)があるとして、以下のように云っている、

色(身)と心の二法に、それぞれ縁生と法尒(天然)との差別がある。諸縁が和合して、仮に生ずる相があるのを、縁生と名づける。煩悩の中にある真如のうちに円満具足している性徳(よい働き)をば、法尒と言っている。(『夢中問答集』川瀬一馬〔訳註〕講談社学術文庫 426頁)

 さらには『円覚経』の一節を引いて、

 「円覚経」に言っている、幻身がなくなってしまうがために、幻心もまたなくなる。幻心がなくなるが故に、幻塵(まぼろしけがれ)もまたなくなる。幻塵がなくなるからして、幻滅(まぼろしの覚り)もまたなくなる。幻滅がなくなるからして、非幻はなくならない。
(『夢中問答集』川瀬一馬〔訳註〕講談社学術文庫 427~428頁)

 私の理解が間違っていなければ、夢窓上人は衆縁和合にして生滅流転する身心が縁生であり、縁生の他に円満具足の法尒(ほうに)の身心があるという考え方のようである。生滅変化の身心と不生不滅の身心の二種である。
 しかしこうも考えられる、縁生の身心は『円覚経』の幻身説から縁生の身心を窺えば、それは始めから存在しない身心である。したがって慧忠国師の云われるように、法尒の身心のみを身心とするとも言えるのである。そうであれば、夢窓上人は慧忠国師と同じ考え方ある。

慧忠国師の身心観

 慧忠国師の身心観は色身を見ること自体を邪見としており、自身は仏性そのもの、如来の存在そのものとして身心を見ているのである。そうだとすれば必然的に『金剛経』に説かれるように、如来は色身として観じることは不可であり、必ず不生不滅の法身と観なければならないとするのである。

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