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第五の光は存在しない

四つの光明

 『サンユッタニカーヤ』(『相応部経典』)の中に次のような仏の言葉がある、

世には四つの光明がある。ここに第五の光明は存在しない。
昼には太陽が輝き、夜には月が照らし、
また、火は昼夜に、あちこちで照らす。
正覚者(ブッダ)は、熱し輝くもののうちで最上の者である。これは無上
の光である

『ブッダ神々との対話―サンユッタ・ニカーヤ1』 岩波文庫 中村元〔訳〕42頁

世の中には、四つの光がある。ここに第五の光は、存在しない。
太陽は昼に輝き、月は夜に照らす。また火は、昼でも夜でも、あちこちで輝く。
正しいさとりを得た人(仏)は、 もののうちで、最も優れている。 これは無上の光輝である。

『ブッダ神々との対話―サンユッタ・ニカーヤ1』 岩波文庫 中村元〔訳〕110頁

 世界には太陽・月・火・仏の四つの光があって、仏はそれら四つの中でも最高の光であると経典では説かれている。
 太陽・月・火が光を放っていることは日常生活の上でもよく理解できるが、仏が無上の光であるということはどういうことなのか探ってみたい。

 上記の『相応部経典』では仏の光がいかなるものなのかの解説がないが、『大日経疏』では仏の光について説かれている、

世間の日はすなわち方分ありて、もしその外を照らすときは内に及ぶ
能わず、明は一辺にありて、(他の)一辺に至らず。 またただ昼光のみ在りて、夜を燭さず。如来の智慧の日光は、すなわちかくの如くにはあらず。一切処に通じて大照明を作す。内外方所、昼夜の別あることなし。

『密教経典 』(講談社学術文庫) 宮坂 宥勝〔訳注〕177頁

 『大日経疏』では仏の光は「智慧」であるとしている。太陽などの物理的光には限界や制限があるが、仏の光には一切の制限がなく、どこでも照らすという。即ち一切処を照らすのであるから梵語で毘盧遮那になるのである。
 村上専精博士の『仏陀論』に、
「毗盧遮那の梵語を正譯には遍一切處若しくは光明遍照といへる」(『仏教統一論 第3編 仏陀論』村上専精 537頁)
と云い、山崎弁栄上人も『永生の光』において
「梵に毘盧遮那、翻すれば遍一切処と云ひ、宇宙全体を身とするの謂である」(『永生の光』山崎弁栄 7頁 光明会本部教学部)
と云って、仏の覚りそのものが宇宙全体、生きとし生けるものたちを照らすから無上の光であるというようである。

 『大乗起信論』にも覚り(真如)には、

自体に大智慧光明の義あるが故に、遍照法界の義あるが故に、真実識知の義あるが故に、自性清浄心の義あるが故に、常楽我浄の義あるが故に、清涼不変自在の義あるが故に、是の如き恒沙に過ぎたる不離不斷不異不思議の仏法を具足し、乃至、満足して、少くる所なき義あるが故に、名づけて如来蔵と為す、亦如来法身と名づくるなり。

『大乗起信論』宇井伯寿[訳]岩波文庫 61頁

と説かれていて、釈尊の覚りには法身が具わっているから、智慧の光が時空を超えて、内外方所、昼夜の別あることなしというようなことになる。

 上記の『大乗起信論』の部分での隈部慈明上人による註釈がある、

無明とは無智の義で、真実の自性を覚知せざるの意である。故に若し無明滅して心性起動するといふことがないならば、即ち大智慧光明の義があらはれて来る訳である。
また妄心が能見相を生起すれば必ずそこには一方に不見の相が生じて全相を覚知するといふことは出来なくなる。何となれば一方に見るところがあれば必ず他方には見ざるところが生ずるからである。よしそうでないにしても、見といふことには必ず能見所見の対立があって、能見は所見を縁ずれども能見自身を縁ずることは出来ないからである。然るに心性が見を離れて了へば最早主観客観の対立もなくなって法界そのものゝ真性に融合することになる。夫故遍照法界の義があらはれて来るのである。

『大乗起信論精義』隈部慈明 法蔵館 258~259頁

 つまり無智=無明、智慧が無いことを明で無いと云っているのである。仏の光明は物理的な光をいっているのではなく、精神的な光明を示しているようである。
 ここで始めに『相応部経典』で説かれたことが理解できてくる。太陽・月・火・仏の中の前三つは物理的な光であるから当然に制限や限界があるが、仏の光は精神的な光明であるから、制限はなく一切処を照らすことができるから、「無上の光」と云われるのであろう。

 さて、ここで『相応部経典』の文のなかで一つの疑問がある。仏が「輝く」ことは智慧であることが解かったが、その前に「熱し」という言葉がある、これが何を意味しているのであろうか。
 仏の「熱」とは一体何か。
 山崎弁栄上人の解釈を伺うと、

慈悲と太陽の熱線。 太陽は明るいと共に熱い熱を放って地上の万物を暖ため有らゆる生物を活かして居る。如来の慈悲は温暖なる霊力を以て衆生の心霊を温ため活かして居る。慈悲と云うものは温暖なる心の作用である、世間には慈悲も同情もなき者を冷酷な人と云う慈悲心とは人の苦を我が苦とし人に楽を与うるを己が楽みとなす。 世に如来程一切の人類に対して最も慈悲の深い御方はない。我等一切衆生に無限の同情を以て苦を抜き楽を与え給うのが即ちミオヤの慈悲である。

『人生の帰趣』 山崎弁栄 岩波文庫 342頁

 仏の「熱」とは慈悲のことで、ここでも物理的な熱さのことではないようである。一切衆生に対して限りない慈しみの心を注ぎ、時間や場所を問わずに苦を抜き楽を与えようとする感情のことである。
 仏は智慧さえあればいいはずであるのに、慈悲が現われてくるのはどういうことなのか。実はこれは智慧と慈悲は一体であって、分けることができない。
 中島観琇上人の解釈を伺うと、

その光明とは、卽ち慈悲の光明である。併し從來、人師方の解釋に依るときは、多く光明は佛の智慧に喩へ、慈悲の方は潤澤に喩へてある、されば今の經に「最尊第一の光明」とは、恐らく佛の智慧に喩へたるものでは無いか、「若し智慧に喩へたる光明であるならば、慈悲の光明とは言へ難いでは無いか」といふ議論も、無いとは言へぬが、全體に於て、慈悲と智慧とは、異つた性質のもので無い、それは何故といふに、慈悲も智慧も、共に佛性の活動である、それ故に「上求菩提」と上に向って發展して行く塲合に、之を「智慧」と名けるのである、それが若し「下化衆生」といふて、下に向って施す場合に於て「慈悲」と名けられるのである。それであるから、上に向って發展し、その極に達するときに「四智」といふて「報身佛の內容たる自受用身」といふものに成るのである。それが若し他に向って說法せんとするときに、具體的なる他受用身の姿を顯すのである、此の時に至ると、佛の心をば「智慧」とは名け無い「一の大慈悲」と仕てしまふのである、その證據には、觀無量壽經には「佛心者大慈悲是なり」と仰せられてある。されば佛の心は、因位修行の時より上向けに是なり」發展して行くときに「智慧」と名け、彌々極處に達して了へば、上に向ふ餘地が無く成るから、下向けに施すより外に道が無く成る、此の時に於て「佛心者大慈悲」といふ。今亦「諸佛の光明」といふのも、此の大慈悲の光明である

『凡夫見佛論』中島観琇(一音社)88~89頁

 智慧も慈悲も元来同じ仏性の顕われであるが、覚りに向う、即ち向上の時は智慧と名づけ、衆生に施すほう、即ち向下の時には慈悲と名づけているのであって二つは不二であるといっている。 

 このように『相応部経典』で説かれる「熱し輝く」というのは、「慈悲と智慧」を表していることが理解できる。四つの光の中で、太陽・月・火はあくまでも自然界の物理的な光明を指しており、仏は精神的な光明を示しており、仏教はあらゆる物理的な光よりも仏陀を無上の光、無上の存在として尊敬を捧げて何よりも仏に価値を置くから、「第五の光は存在しない」と経典では云っているのである。


 


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