四つの光明
『サンユッタニカーヤ』(『相応部経典』)の中に次のような仏の言葉がある、
世界には太陽・月・火・仏の四つの光があって、仏はそれら四つの中でも最高の光であると経典では説かれている。
太陽・月・火が光を放っていることは日常生活の上でもよく理解できるが、仏が無上の光であるということはどういうことなのか探ってみたい。
上記の『相応部経典』では仏の光がいかなるものなのかの解説がないが、『大日経疏』では仏の光について説かれている、
『大日経疏』では仏の光は「智慧」であるとしている。太陽などの物理的光には限界や制限があるが、仏の光には一切の制限がなく、どこでも照らすという。即ち一切処を照らすのであるから梵語で毘盧遮那になるのである。
村上専精博士の『仏陀論』に、
「毗盧遮那の梵語を正譯には遍一切處若しくは光明遍照といへる」(『仏教統一論 第3編 仏陀論』村上専精 537頁)
と云い、山崎弁栄上人も『永生の光』において
「梵に毘盧遮那、翻すれば遍一切処と云ひ、宇宙全体を身とするの謂である」(『永生の光』山崎弁栄 7頁 光明会本部教学部)
と云って、仏の覚りそのものが宇宙全体、生きとし生けるものたちを照らすから無上の光であるというようである。
『大乗起信論』にも覚り(真如)には、
と説かれていて、釈尊の覚りには法身が具わっているから、智慧の光が時空を超えて、内外方所、昼夜の別あることなしというようなことになる。
上記の『大乗起信論』の部分での隈部慈明上人による註釈がある、
つまり無智=無明、智慧が無いことを明で無いと云っているのである。仏の光明は物理的な光をいっているのではなく、精神的な光明を示しているようである。
ここで始めに『相応部経典』で説かれたことが理解できてくる。太陽・月・火・仏の中の前三つは物理的な光であるから当然に制限や限界があるが、仏の光は精神的な光明であるから、制限はなく一切処を照らすことができるから、「無上の光」と云われるのであろう。
さて、ここで『相応部経典』の文のなかで一つの疑問がある。仏が「輝く」ことは智慧であることが解かったが、その前に「熱し」という言葉がある、これが何を意味しているのであろうか。
仏の「熱」とは一体何か。
山崎弁栄上人の解釈を伺うと、
仏の「熱」とは慈悲のことで、ここでも物理的な熱さのことではないようである。一切衆生に対して限りない慈しみの心を注ぎ、時間や場所を問わずに苦を抜き楽を与えようとする感情のことである。
仏は智慧さえあればいいはずであるのに、慈悲が現われてくるのはどういうことなのか。実はこれは智慧と慈悲は一体であって、分けることができない。
中島観琇上人の解釈を伺うと、
智慧も慈悲も元来同じ仏性の顕われであるが、覚りに向う、即ち向上の時は智慧と名づけ、衆生に施すほう、即ち向下の時には慈悲と名づけているのであって二つは不二であるといっている。
このように『相応部経典』で説かれる「熱し輝く」というのは、「慈悲と智慧」を表していることが理解できる。四つの光の中で、太陽・月・火はあくまでも自然界の物理的な光明を指しており、仏は精神的な光明を示しており、仏教はあらゆる物理的な光よりも仏陀を無上の光、無上の存在として尊敬を捧げて何よりも仏に価値を置くから、「第五の光は存在しない」と経典では云っているのである。