預流果の条件~仏教における覚りの第一段階~
預流果とは
仏教では覚りに階梯があり、上から阿羅漢(無学果)、阿那含(不還果)、斯陀含(一来果)、須陀洹(預流果)となっている。預流果とは覚りにおいて一番下の位で、信仰が決定して不退転(地獄・餓鬼・畜生という三悪道の運命はまぬかれ、 決定して正覚に向うもの)となる階梯。
いわゆる聖者の流れに入った境地で、終局的に解脱が決定した状態になるをいう。ここまでくれば修行も先ずは安心といったところである。
では一体この預流果(須陀洹)の境地に至るにはどのようなことを行えばよいのかが仏教を信仰する者にとって大いに気になるところだが、それは仏の説法の中に示されているので伺ってみたい。
雑阿含経
『雑阿含経』では以下のようにに説かれている、
つまり、預流果になるには、
①仏への絶対なる信
②法への絶対なる信
③僧への絶対なる信
④戒への清浄なる行
上記の四つの条件が満たされる時である。
ここで、着目すべきは仏教の主軸となる四諦や十二縁起などを預流果の条件とはしていない。三宝への帰依と戒の実践が条件であり、それによって不退転の聖者の位へと到ることができるようである。
最終的な修行法では四諦や十二縁起が必要であろうが、不退転になるためには特にそれらが必須条件ではないことが解る。仏教、特に原始仏教では四諦や十二縁起といった思索的、観察的な行法がよく取り上げられるが、ここで見られるように、信に重きを置くことがあるというのは、見落とされがちであろう。
では、預流果の四条件を具体的にひとつひとつ窺ってみたい。
①仏への絶対なる信
第一の条件は仏に対してであり、次のような信を起こす必要がある。
応供・正等覚者・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊という仏の十号への確信である。
十号の意味を略説すると以下である、
上記のように仏への信を決定させることも一通りの思考が必要となってくるので、決して簡単なことではない。
②法への絶対なる信
第二の条件は、仏の教えは必ず果報があり、涅槃へ導くものであるとして微塵の疑いも持たない。
『大乗起信論』では以下のように説かれる、
常に仏の教えを忘れずに実践していくことであり、他の教えや学問などを眼中に入れず座右としていくことが必要である。凡夫はすぐに世俗的な考えに流されてしまう可能性がある。
③僧への絶対なる信
第三の条件は、仏の弟子たちへのつまり仏教教団の構成員に対して、尊敬、尊重、供養、合掌し、福田であるというように接する。
ここで着目すべきは、仏の弟子たちというのは「四双八輩」であるとする。「四双八輩」は「四向四果」とも云われ、先に述べた「阿羅漢、不還果、一来果、預流果」に加え、各階梯に向う者たちも入るのである。
即ち、「預流向・預流果・一来向・一来果・不還向・不還果・阿羅向・阿羅漢果」の八つの階梯をいうのである。
このうち「預流向」は着目すべきで、この境地はまだ預流果に向っている状態で聖者の流れに入っておらず不退転ではない者たちであるが、「預流果」になるには「預流向」の修行者への敬意も忘れてはならないとしている。
つまり、「預流果」の者は自分より下の階梯である「預流向」の者たちへの慢心はないということである。これはなかなか容易ではない。修行が進むと多くの者は慢心を起こして下の者たちを見下してしまう。
「預流果」を謳っていながら、新発意の修行者を見下していたら、その者は「預流果」にはなっていないことになる。これは覚りへの良い判断材料といえる。
『郁伽長者所問経』にも、
凡夫に対しても尊崇・恭敬の心を持つことが菩薩の態度であるとしている。
④戒への清浄なる行
第四の条件は戒の成就である。声聞乗であれば具足戒、菩薩乗であれば円頓戒である。具足戒は二百五十戒、円頓戒であれば十重四十八軽戒となり、時代の下った現代では完全に備えることは容易なことではない。
円頓戒における十重四十八軽戒を例に上げると、
おそらくは十重禁戒を成就させることは容易でないからこそ懺悔がある。
浄土教の善導大師や法然上人などは周りから見れば戒を完全に保っているように窺えるが、本人たちは成就できないとしており、自らを凡夫と称している。
そう考えるといずれにしても「預流果」への到達は厳しいものとなる。
預流果は自覚できるか
これまで「預流果」の条件を見てきたが、簡単に思える四つの条件も細かく検討していくと、すべて成就させることは特に現代においては難中の難であろうと思う。現代人は自我が膨れ上がった状態にあり、「預流果」のような自我が抑えられて仏・法・僧・戒への忠心となることは極めて難しいと考えられる。
しかし、仏・法・僧・戒に対して不放逸であれば絶対に成就できないわけではないであろう。では成就した時にどのようにして自覚できるのか。「預流果」を目の当たりにすることは可能であるのかが知りたくなるのである。
預流果の自覚を説く『遊行経』
『遊行経』には、四つの浄信を得た境地を「法鏡」と名づけ、次のようなことを目の当たりにすると云っている、
預流果の自覚ありというように考えられるが、預流果の自覚が凡夫が考える自覚と同じかといえばおそらく違うだろう。
預流果の非自覚を説く『金剛経』
『金剛経』に説かれているのは預流果は自覚しないということ、
上記から伺うと自分が「預流果」になったても、「預流果」を自覚しないようであり、もし「預流果」という自覚があれば、自覚しているという自我が残っているのでそれは「預流果」ではないというのである。
経に「自我への執着が起こり、衆生への執着、命あるものへの執着、個我への執着」というのは、仏・法・僧・戒へ絶対の浄信を持っている者が、我相(自我)・衆生相(凡夫)・寿者相(生滅)・人相(主客)の四つの境界を見ることはないということである。
仏への浄信を持つ者は「我相(自我)」に執着はないであろうし、法への浄信を持つ者は「寿者相(生滅)」を見ないであろうし、僧への浄信を持つ者は「衆生相(凡夫)」を想わないであろうし、戒への浄信を持つ者は「人相(主客)」を分けないであろうというのである。
したがって「預流果」の者の自覚は自覚無き自覚であり、『遊行経』の「わたしには、地獄は滅し、畜生道は滅し、餓鬼道は滅し、堕地獄・悪趣は滅して、いまや、わたしは預流となり、もはや退堕することなく、かならず正覚にいたるであろう」というのは、『金剛経』でいうところの「色形(の法)を得ることはありません。声も、香りも味も、触れられるものも、心の対象(法)も得ることはありません。だから、預流のものと呼ばれるのです。」であり、「我相(自我)・衆生相(凡夫)・寿者相(生滅)・人相(主客)」を分別しなくったために至った「不求自得」の世界であるところを指して、「いまや、わたしは預流となり」と云い、「預流のものと呼ばれる」と云っているのである。
つまり預流果は自覚にして非自覚であり、非自覚にして自覚の境地、それは凡夫からでは窺い知ることのできない聖者の位であって、日夜預流に向って浄信を培っていくことで十分であり、その先に「不求自得」によって至る境地なのだから、遮二無二に目指す世界ではないということで結論付けておこう。
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