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『正法眼蔵』の「道心」を読む~道元的五種正行を考える~

 道元上人著『正法眼蔵』の「道心」は、称名念仏(弥陀仏への念仏ではない)が中心であり、そのことは善導大師や法然上人の浄土門の「五種正行」,
即ち「読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養」に類似しているところが少なからずあるので、「道元的五種正行」を考えてみたい。
 先ず「道心」では次の文言から始まる、

 仏道をもとむるには、まづ道心をさきとすべし。道心のありやう、しれる人まれなり。あきらかにしれらん人に問ふべし。
 よの人は道心ありといへども、まことには道心なき人あり。まことに道心ありて、人にしられざる人あり。かくのごとく、ありなししりがたし。おほかた、おろかにあしき人のことばを信ぜず、きかざるなり。また、わがこゝろをさきとせざれ、仏のとかせたまひたるのりをさきとすべし。よくよく道心あるべきやうを、よるひるつねにこゝろにかけて、この世にいかでかまことの菩提あらましと、ねがひいのるべし。
 世のすゑには、まことある道心者、おほかたなし。しかあれども、しばらく心を無常にかけて、世のはかなく、人のいのちのあやふきこと、わすれざるべし。われは世のはかなきことをおもふと、しられざるべし。あひかまへて、法をおもくして、わが身、我がいのちをかろくすべし。法のためには、身もいのちもをしまざるべし。

『正法眼蔵』(四)  道元 (著) 水野 弥穂子(校注) 470~471頁

 道元上人は、何よりも先ずは道心を発すことが大事であり、それが仏教信仰における第一歩であるとしている。
 道心というのは菩提心のことだが、道元上人によれば道心(菩提心)を領解している人は稀であり、見せかけの道心を持つ者がいたり、真実の道心を持っていてもそういう人は世に出てこない故に、知ることができないことがあるという。
 道心を知るには仏の説かれたこと法を学び、菩提心の真実の有り様を昼夜に渡って願うことが重要であると云っている。
 考えてみるに偽りの道心者にならないためには、菩提心の前に種々の心を発す必要がある。
 
 『維摩経』に、

直心は是れ菩薩の淨土なり、菩薩成佛の時諂はざる、衆生來って其の國に生ぜん。深心は是れ菩薩の淨土なり、菩薩成佛の時、功德を具足する衆生來って其の國に生ぜん。菩提心は是れ菩薩の淨土なり、菩薩成佛の時、大乘の衆生來って其の國に生す。

(「維摩経」『國訳一切経 経集部六』大蔵出版社蔵版 319頁)

 先ずは直心・深心であり、その後に菩提心が説かれている。不諂の直心から功徳を集める心に繋がり菩提心が発れば真実の菩提心となる。
 とはいえ、上記の道元上人の説示によれば末法には真実の菩提心を発している者は稀なので、ともかく無常を感じて己を空しくして、仏法こそを第一義として、自己を捨ててしまえばいいと云う。

 法然上人の場合では、

三心はこれ行者の至要なり。所以は何ん。『経』にはすなわち、「三心を具足する者は、必ず彼の国に生ず」と云う。明らかに知んぬ、三を具して必ず生ずることを得べし。『釈』にはすなわち、「もし一心をも少けぬればすなわち生ずることを得ず」と云う。
 明らかに知んぬ、一も少けぬればこれ更に不可なり。これによりて極楽に生ぜんと欲せん人は、全く三心を具足すべし。

『浄土宗聖典版 選択本願念仏集』 浄土宗 152頁

 三心は浄土門の信仰者が発す願往生心を三つに分けたもので、
『勧無量寿経』に説かれる。

もし、衆生ありて、かの国に生まれんと願う者は、三種の心を発さば、すなわち往生す。なにをか三となす。一には、至誠心、二には、深心、三には廻向発願心なり。この三心を具うれば、必ずかの国に生まる。

『浄土三部経(下)』ワイド版岩波文庫 68~69頁

 上述した『維摩経』の三心の浄土版であり、これらを発すことで浄土門への信仰が可能となる。

 また法然上人の『一紙小消息』には、

受け難き人身を受て、あひ難き本願にあひて、発し難き道心を発して、離れ難き輪廻の里を離れて、生まれ難き浄土に往生せんこと、悦びの中の悦び。なり

『浄土宗聖典』 望月信道〔編〕 浄土宗聖典刊行会 165頁

 浄土の法門をこの世における最高の悦びとせよとして、道元上人が「あひかまへて、法をおもくして、わが身、我がいのちをかろくすべし。」と云うところと類似している。

 さて続いて、『正法眼蔵』には「称名」が説かれる、

 つぎには、ふかく仏法僧三宝をうやまひたてまつるべし。生をかへ身をかへても、三宝を供養し、うやまひたてまつらんことをねがふべし。ねてもさめても三宝の功徳をおもひたてまつるべし、ねてもさめても三宝をとなへたてまつるべし。たとひこの生をすてて、いまだ後の生にむまれざらんそのあひだ、中有と云ふことあり。そのいのち七日なる、そのあひだも、つねにこゑもやまず三宝をとなへたてまつらんとおもふべし。七日をへぬれば、中有にて死して、また中有の身をうけて七日あり。いかにひさしといへども、七々日をばすぎず。このとき、なにごとを見きくもさはりなきこと、天眼のごとし。かゝらんとき、心をはげまして三宝をとなへたてまつり、
南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧
ととなへたてまつらんこと、わすれず、ひまなく、となへたてまつるべし。
 すでに中有をすぎて、父母のほとりにちかづかんときも、あひかまへてあひかまへて、正知ありて託胎せん。処胎蔵にありても、三宝をとなへたてまつるべし。むまれおちんときも、となへたてまつらんこと、おこたらざらん。六根にへて、三宝をくやうじたてまつり、となへたてまつり、帰依したてまつらんと、ふかくねがふべし

『正法眼蔵』(四)  道元 (著) 水野 弥穂子(校注) 471~472頁

 仏・法・僧の三宝を畢竟、命が尽きるまで称名し続けることをせよという。ここで云われている称名の説示は浄土門の往生の様相そのものかと思うくらいであり、「称名正行」に極めて近い。さらには浄土門の「四修」という教説があり、これにも類似している。
 
法然上人の『選択本願念仏集』に、

善導の『往生礼讃』に云く、また勧めて四修の法を行ぜしむ。何者をか四となす。一には恭敬修。いはゆるかの仏、および彼の一切の聖衆等を恭敬礼拝す。故に恭敬修と名づく。畢命を期となして、誓って中止せざる、すなはちこれ長時修なり。
二には無余修。いわゆる専ら彼の仏の名を称して、彼の仏および一切の聖衆等を、専念し、専想し、専礼し、専讃して、余業を雑えず。故に無余修と名づく。畢命を期となして誓って中止せざる、すなはちこれ長時修なり。
三には無間修。いわゆる相続して、恭敬礼拝し、称名讃歎し、憶念観察し、回向発願し、心心相続して、余業を以て来し間えず。故に無間修と名づく。また貪瞋煩悩を以て来し間えず。随犯随懺して、念を隔て、時を隔て、日を隔てしめず。つねに清浄ならしめるをまた無間修と名づく。
畢命を期となして誓ひて中止せざる、すなはちこれ長時修なり。

『浄土宗聖典版 選択本願念仏集』 浄土宗 154頁

 法然上人は善導大師の説示を引いて、何はなくとも念を隔て、時を隔て、日を隔てしめず称名を命終の時まで絶え間なく続けよと説かれており、道元上人も善導大師の影響を受けておられる可能性があるが、道元上人の場合は中有の時も、さらにはもしまた人として生まれ変わる際の母胎にいる時でも称え続けよとの仰せで、徹底しておられる。

 また続いて、『正法眼蔵』には、

 またこの生のをはるときは、二つの眼たちまちにくらくなるべし。そのときを、すでに生のをはりとしりて、はげみて南無帰依仏ととなへたてまつるべし。このとき、十方の諸仏、あはれみをたれさせたまふ。縁ありて悪趣におもむくべきつみも、転じて天上にむまれ、仏前にうまれて、ほとけををがみたてまつり、仏のとかせたまふのりをきくなり。 
 眼の前にやみのきたらんよりのちは、たゆまずはげみて三帰依となへたてまつること、中有までも後生までも、おこたるべからず。かくのごとして、生々世々をつくしてとなへたてまつるべし。仏果菩提にいたらんまでも、おこたらざるべし。これ諸仏菩のおこなはせたまふみちなり。これを深く法をさとるとも云ふ、仏道の身にそなはるとも云ふなり。さらにことおもひをまじへざらんとねがふべし

『正法眼蔵』(四)  道元 (著) 水野 弥穂子(校注) 473~474頁

 これは命終時の用心であろう。称名すれば必ず天界往生が約束されるという。道元上人は浄土門には否定的であるようだから、浄土ではなくあくまでも天界往生を念頭においておられる。この天界はおそらく弥勒菩薩の在ます兜率天であるのではなかろうか。『正法眼蔵』の十二巻本の「一百八法明門」には兜率天にて釈尊が降誕の前に「一百八法門」が説かれており、「いま初心晩学のともがらのためにこれを撰す」と云っておられるから、道元上人ご自身も未来仏の弥勒菩薩の下で聞法を願っていたのではないかと考えられる。

 命終時の用心について浄土門では善導大師による『往生礼讃』の「発願文」の中に、

 願わくは弟子等、命終の時に臨みて心顛倒せず、心錯乱せず、心失念せず、身心もろもろの苦痛なく、身心快楽なること禅定に入るが如く、聖衆現前し、仏の本願に乗じて、阿弥陀仏国に上品往生せん。 彼の国に到り已りて、六神通を得て、十方界に入り、苦の衆生を救摂せん。虚空法界尽きんや、我が願もまたかくの如くならんと。発願し已りて、心を至して阿弥陀仏に帰命したてまつる。

『善導 六時礼讃 浄土への願い』 原口弘之、宇野光達 春秋社 23頁

 さらに「仏果菩提にいたらんまでも、おこたらざるべし。これ諸仏菩のおこなはせたまふみちなり」という箇所は、以下の善導大師の『観経疏』の文言に類する、

我等愚痴の身、曠劫より来流転して、今釈迦佛の末法の遺跡たる弥陀の本誓願、極楽の要門に逢へり。定散等く回向して、速に無生の身を証せん。我れ菩薩蔵頓教一乗海により依て、偈を説て三宝に帰して、仏心と相応せん。十方恒沙佛、六通をもて我れを照知したまへ。

『浄土宗聖典』 望月信道〔編〕 浄土宗聖典刊行会 344頁

 道元上人が善導大師や法然上人の思想を知らないことはないと考えられるので、浄土門をヒントにしている可能性は大いにある。

 そして「道心」の結句に向って以下のことが説かれる、 

 又、一生のうちに仏をつくりたてまつらんといとなむべし。つくりたてまつりては、三種の供養じたてまつるべし。三種とは、草座・石蜜漿・燃燈なり。これをくやうじたてまつるべし。 
 又、この生のうちに、法華経つくりたてまつるべし。かきもし、摺写したてまつりて、たもちたてまつるべし。つねにはいたゞき、礼拝したてまつり、華香・みあかし、飲食衣服もまゐらすべし。つねにいたゞきをきよくして、いたゞきまゐらすべし。 
 又、つねにけさをかけて坐禅すべし。袈裟は、第三生に得道する先蹤あり。すでに三世の諸仏の衣なり、功徳はかるべからず。坐禅は三界の法にあらず、仏祖の法なり。

『正法眼蔵』(四)  道元 (著) 水野 弥穂子(校注) 474頁


 ここでは、始めに仏への三種供養が説かれるが、これも善導大師が「讃歎供養正行」を念仏の助業として取り上げている点も浄土門に近い。
 そして、道元上人は『法華経』を受持・書写して供養せよとしており、善導大師の「読誦正行」として「浄土三部経」に専念せよというところに類似しているように思う。
 礼拝については仏への礼拝ではなく『法華経』への礼拝を示しておられ、浄土門が弥陀への礼拝であることと比して、興味深い。
 浄土門での「観察正行」に対する行は上記から云えば、坐禅になるであろうか。
 
善導大師の『観念法門』に、

修行者が、もし坐って観想しようとするならば、はじめに結跏坐をせよ。すなわち左の足を右のももの上にのせて外側をひとしくする。右の足を左のももの上にのせて外側をひとしくする。 右手を左の掌の中に置き、両手の親指のはらを合わせる。 次に姿勢をととのえて正しく坐り、口を閉じ眼を閉じる。それは開くがごとくして開かず、閉じるがごとくして閉じないようにするのである。

『人類の知的遺産18 善導』藤田宏達 講談社 316~317頁

 上記のことから、道元的五種正行を考えるならば、
①読誦正行→『法華経』の受持・書写
②観察正行→袈裟をかけて坐禅
③礼拝正行→『法華経』への法に対する礼拝
④称名正行→「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」の称名、もしくは「南無帰依仏」のみでも可
⑤讃歎供養正行→三種供養
無理に当てはめたような箇所もあるが、一応の対応を考えみると上記のようになるかと思う。

 浄土門では、「読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養」の中で、「称名」を正定業、他を助業として「称名」を最も重要視するが、道元上人の場合はどの行も同列に扱っているようである。「坐禅は三界の法にあらず、仏祖の法なり」と云って、「只管打坐」を標榜する道元上人故に坐禅を最も重要視しているようにも考えられるが、前半にあれだけ「称名」を強調して「これ諸仏菩のおこなはせたまふみちなり」ということであるから、浄土門の「称名」のように「坐禅」を重要視しているようにも見えない。
 「道心」では道元という方がこれだけ「称名」を強調しているのも、法然上人の易行道によって布教を成功させていたことを無視できなかったのかもしれない。


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