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先人に学ぶ仏教的対話術~道元上人と沢庵上人~

発言時の二種

 何か意見を述べる時には、即座に言葉にして物を言うことができる人もあり、考え抜いてからしか発言できない人もいる、また即座に言葉にできる能力を持っていても考え抜いてから述べたほうが良い場合もあり、考え抜いてからでなく即座に発言したほうが良い場合もあるので、非常に判断が難しいところではある。
 こういうことがある時、私は仏教徒であるからして、先人の仏教徒達の智慧をお借りして考えるようにしている。ここでは曹洞宗・永平道元上人と臨済宗・沢庵宗彭上人のお示しからいかにして発言することが良いのかを考えてみたい。

道元上人の教示

 まず道元上人は『正法眼蔵随聞記』の中で次のように云っている、

 仏道を学ぶ人が物を言おうとする時は、言う前に三度反省して、自分のためにも相手のためにもなるようならば、言うがよい。利益のなさそうな時には言うのをやめるべきである。
 こういうことは、一ぺんにはできないものである。心にかけてだんだんに習熟すべきである。

『正法眼蔵随聞記』 水野 弥穂子〔訳〕ちくま学芸文庫 18頁

 道元上人の考え方では、物を言う際にはよくよく考えて自他共に利益となるようなことであれば発言して良いとしている。発言には十分気を付けて発言せよというのである。 
 さらに上記の教えを次のように詳しく云っている、

 教えて言われた。
「三度考え直してのち言え。」という言葉があるが、その意味は、すべて物を言おうとする時も、事を行なおうとする時も、必ず三度考え直して後に、言ったり行なったりすべきであるというのである。昔の儒者は多くは、「三度考え直して、三度とも善であるならば言いもし、行ないもせよ。」と解釈している。 しかし中国の賢人の気持では、三度考え直せというのは、幾度も考え直せということである。言葉に出す前に考え、行為に移す前に考え、考えるたびごとに善であるなら言ったり行なったりすべきであるというのである。達磨門下の禅僧もまた必ずこうあるべきである。自分で思う事も、言う事も、自分でも気がつかないところで、悪い事もあるものだから、まず仏道にかなっているかどうかを反省し、また自他のために利益があるかどうかを、よくよく反省して後に、善であるようなら行ないもし、言いもすべきである。 

『正法眼蔵随聞記』 水野 弥穂子〔訳〕ちくま学芸文庫 309頁

 三度というのは何度も考えて慎重を期すということであり、道理に合えば、仏教徒の場合は仏法に適っていれば、その時発言せよというのである。
 発言するということは、いわゆる仏教でいう身業・口業・意業の三業中における口業に当たるから仏の教えに適した言葉を使用していくことが重要であり、八正道でもあるところの正語の実践をせよというのであろう。
 道元上人の仏教者として態度が現われており、仏に忠実に実践しようとするところは非常に勉強になる。

沢庵上人の教示

 次は沢庵上人の考え方を伺うと、『不動智神妙録』の中で次のように云っている、

 禅問答でも、このように間髪を容れない心の状態を大切にします。仏法では、心が何かにひっかかって、物に心の残ることを嫌います。それで、心の止まることを煩悩というのです。
 激しい流れの川に玉を流すように、どっと流れて少しも止まることのない、心の状態を尊ぶのです。

『沢庵 不動智神妙録』 池田諭〔訳〕 タチバナ教養文庫 53頁

 沢庵上人の教えでは先の道元上人とは反対に、考えなど入れず即座に発言せよという。心に何か思いがあり、少しでも止まることがあれば煩悩であるとして、止まらないことに尊さを見出し重きを置く。
 さらに止まらないところの意味を次のように云っている、

 その答が善いとか悪いとかいうよりも、止まらぬ心を尊ぶのです。
 止まらぬ心は、色にも香りにも移ることがありません。この移らぬ心の姿を神といい、仏といい、禅心とも極意ともいうのですが、考えに考えていうのならば、立派な文句をいったとしても、それは迷いとされるのです。

『沢庵 不動智神妙録』 池田諭〔訳〕 タチバナ教養文庫 56頁

 善悪を念頭に入れず、どこにも心を移さない、何ものにも囚われないその心が最も尊いとして、その状態を神や仏としている。考え抜いていかに素晴らしい言葉を述べてもそれは囚われであり、全て迷いに過ぎないというのが沢庵上人の考え方のようである。
 同じ臨済宗の関山慧玄上人にも似た逸話がある、

 妙心寺における関山大師の居室はあばら屋そのもので、雨の降るたびにすわる場所がないほどであった。その日もひどい雨であった。大師は傍に控えていた者たちに命じた。
「何か器を持って来て、雨の漏るところへ当てなさい」
 すると一人の小僧はただちにざるを持って来た。 大師はこれをはなはだ賞められた。ところが、その後から、もう一人の小僧が桶を持って来たところ、大師は、
「このまぬけ面め」
と思って、部屋から追い出してしまった。

『禅門逸話選中』 禅文化研究所 16頁

 上記の逸話も沢庵上人の云うところと同じく、何が雨漏りを受けるに役立つか考えてから桶を持ってきた弟子より間髪入れず即座にザルを持って来た弟子を称え、止まらないはたらきを重要視している。

考え抜いての発言か即座の発言か

 仏教の先徳である御二人の教示を伺ってみたが、道元上人と沢庵上人の発言に対する考え方は正反対であることが見て取れる。これは曹洞宗と臨済宗の性格なのか、個人の見解なのか浄土宗を信奉する私には詳細は不明だが、お二方共に仏教の善知識であるから、迷った時には自分が尊敬できる、または自分に合っている教えを活かせば良いのであって、どちらが正しいということはないといえる。
 私自身にとっては道元上人のように考え抜いてから発言するほうが自分の機根にあっているように感じるので、道元上人に倣いたいところである。

 

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