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日蓮上人に学ぶ礼節を重んじた批判方法~対 蘭渓道隆上人・良観房忍性上人~

日蓮上人の批判方法と現代の批判方法


 現代はSNSなどで手軽に自分の意見を述べたり、相手と意見交換ができたりと便利ではあるが、昨今の事情を顧みると誹謗中傷や炎上が甚だしい。
 批判的意見ならば良いと考えるが、その多くが誹謗中傷の類いであり、よしんば批判的意見であっても相手への敬意や礼節を大切にしていることはほとんどないと見受けられる。
 そこで、鎌倉仏教の祖師のお一人でもあり、批判的手法の激しかった日蓮上人の批判の仕方を見てみたい。

 日蓮上人は、鎌倉仏教の先人の祖師方や同時代の仏教者を相手取って激しい批判を繰り返していたことは有名で、特に四箇格言が知られ、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」という言葉を遺しておられる。浄土宗の法然上人と禅門、殊に達磨宗の大日房能忍上人には、徹底した批判をしておられたようである。
 私自身は浄土宗の信仰者なので、日蓮上人からすれば地獄行きと云われてしまうだろう。しかし、日蓮上人の信仰心には敬服してしまうし、私自身は見習いたい方のひとりである。

 さて、日蓮上人の激しい批判は言葉にも表れているが、実際に書面などで批判文を相手に送る時には、敬意と礼節を重んじていたようである。この辺りはさすが仏教者であり、現代のSNSに見られるような誹謗中傷や罵詈雑言とは一線を画す。 

蘭渓道隆上人への批判

 始めに、日蓮上人(1222~1282)と同時代に活躍された建長寺住持で臨済宗の蘭渓道隆上人(1213~1278)への書簡から窺ってみたい。この批判文は前述で触れた有名な四箇格言が含まれている、

建長寺道隆に与うる書

 それ仏閣は軒をならべ、法門は屋にいたっている。仏法の繁栄はインド・シナにも超え、僧の行儀は六神通の阿羅漢のごとくである。しかりといえども、釈尊一代の諸経において、いまだ勝劣・浅深を知らぬ。しかも禽獣に同じく、たちまち三徳の釈迦如来をなげうって、他方の仏菩薩を信じている。これでは逆路伽耶陀の者ではないか。念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法律宗は国賊の妄説である。
 ここに日蓮、さる文応元年(一二六〇)のころ考えた書を『立正安国論』と名づけ、宿屋入道を介して故最明寺入道殿(時頼)に奉った。この書のいわんとするところは、念仏・真言・禅・律等の悪法を信ずるゆえに、天下に災難しきりに起こり、あまつさえ、他国よりこの国を攻められるであろうということを考えたのである。しかるにさる正月十八日に蒙古の国書が到来したという。日蓮の考えたところに少しも違わず符合している。 諸寺諸山の祈禱、その威力が滅しているゆえであろうか。はたまた悪法であるゆえなのか。
 鎌倉じゅうの上下万人、道隆聖人をば仏のごとくに仰ぎ、良観聖人をば阿羅漢のごとくに尊んでいる。そのほか寿福寺・多宝寺・浄光明寺・長楽寺・大仏殿の長老らは、「我慢心充満、いまだ得ざるに得たりとなすという」の増上慢の大悪人である。どうして蒙古国の大兵を祈りによって降伏せしめられようぞ。さらには、日本国じゅうの上下万人、ことごとく生けどりとなるであろう。今生には国を亡ぼし、後世にはかならず無間地獄に堕ちるであろう。日蓮の申すことをお用いなくば後悔なさるであろう。 
 このこと、鎌倉殿・宿屋入道殿・平左衛門尉殿等へ申しあげてある。一所に寄り集まって御評定なさるがよい。日蓮が自分勝手な考えで申すのではない。ただ経論の文によって申すのである。つぶさには紙面にのせがたい。 対決のときを期している。書面はことばをつくさない。ことばは心をつくさない。恐々謹言。
 文永五年辰戊十月十一日  日蓮(花押)
進上 建長寺道隆聖人 侍者御中
(与建長寺道隆書 五十六 写本 漢文体)

『日蓮 立正安国論ほか』紀野一義〔訳〕中公クラシックス 55~57頁

 上記のように内容はかなり辛辣であり、日蓮上人らしく凄まじい。
 鎌倉時代当時の仏教に関して日蓮上人は、日本仏教はインドや中国を超えて盛んではあり、僧侶の行儀も良いが仏法の勝劣や深浅を知らないから中身が抜け落ちているとして批判的である。
 日蓮上人に云わせれば、浄土宗・禅宗・真言宗・律宗すべて実大乗ではないといったところのようである。

 この手紙は蘭渓道隆上人に宛てたものであり、本人への批判と後述の忍性上人(=良観上人 1217~1303)への批判が述べられており、お二方に対して増上慢だとしてかなり手厳しい言葉である。
 道隆上人に対して宗論で決着をつけようとその勢いは凄まじいとしか言えない。

 しかしながら、私が着目したいのは、手紙の最後の宛名のところである。
先ほどから指摘しているように、日蓮上人の批判文は辛辣ではあるが、「恐々謹言」と結んだうえで、「建長寺道隆聖人 侍者御中」と敬意をもって送っているところである。
 これは現代のSNSなどでは見られないことであり、ここに批判と誹謗の決定的な違いがあるように考えられる。
 この手紙が侍者から道隆上人ご本人に届けられたかどうかは不明だが、道隆上人はスルーされたようである。現代的言えば、未読スルーの可能性もあるが、おそらく既読スルーだろう。
 ともかく、批判する相手にも敬称をつけて送付し、書面の中でも決して呼び捨てにはされておられない。

良観房忍性上人への批判

 続いて、上記の手紙の中でも既に名前が上がっていた忍性上人(房号が良観)に対して宛てた書簡である。

極楽寺良観に与うる書

 西のえびす大蒙古国より国書到来のことについて、鎌倉殿(時宗のこと)そのほかへ書状をさしあげてある。日蓮がさる文応元年(一二六〇)のころ考え、申した『立正安国論』のごとく、いささかの相違もなきことが起こった。このこと、いかに長老忍性、すみやかに嘲哢の心をひるがえし、早く日蓮に帰依したまえ。
 もししからずば、「人間を軽んじ賤しめる者、白衣(在家者)とともに説法」の失、逃れがたいこととなるのではないか、「法によって人によらざれ」とは如来の金言である。 良観上人の住処を『法華経』に説いていう。「あるいは阿練若(森林)にあり、納衣(弊衣)にて空閑(しずかなところ)にあり」(勧持品))と。阿練若は無事と翻訳する。 日蓮を讒言上奏することは住処と相違しておりますぞ。あなたは三学に似た矯賊ともいうべき聖人である。僭聖増上慢であって、今生では国賊、 来世は那落(地獄)に堕在すること必定である。 少しでも先非を悔いるなら日蓮に帰依なされ。
 このことは鎌倉殿をはじめ、建長寺そのほかへも申しあげてある。結局、本意をとげようと思うのなら対決のほかはない。しかし、経・律・論の三蔵のなかでも浅薄な法をもって、諸経中の王である『法華経』に立ち向かうのは、江河と大海と、華山と妙高山(須弥山のこと))との優劣のごとくであろう。 蒙古国を祈って降伏させる秘法、 さだめしご存じであろうな。
 日蓮は日本第一の『法華経』の行者、蒙古国退治の大将である。「一切衆生中、また第一となす」とはこれである。いくらことばをつくしても理をつくすことはできないから、以下は省略する。恐々謹言。
 文永五年十辰戊月十一日   日蓮(花押)
謹上 極楽寺長老良観聖人 御所
(与極楽寺良観書 五十七 写本 漢文体)

『日蓮 立正安国論ほか』紀野一義〔訳〕中公クラシックス 57~58頁

 道隆上人に対するのと同様に内容はかなり辛辣である。
「三学に似た矯賊」や「僭聖増上慢」(内心は俗悪で、為政者・権力者に近づき、その力を借りて弘経者を迫害しようとするえせ聖者)と激しい言葉である。
 律宗の忍性上人は当時の癩病患者などを世話したりと支持者が多かったことで有名だが、『法華経』の信仰者でないと世の中は救えないということであろうか。日蓮上人は自分に帰依しなさいとここでも上人の勢いは止まらない。

 しかしながら、この手紙においても「恐々謹言」と結んで「謹上 極楽寺長老良観聖人 御所」と敬称をつけて相手への敬意と礼節をはずさないところはさすがというところである。
 果たして忍性上人は手紙を読まれたのだろうか。これは道隆上人の時とは違い、ご本人宛てであるから、未読スルーはないと思うが、どちらにせよ無視しておられるから既読スルーである。

 日蓮上人の批判方法は相手への敬意と礼節は忘れない。現代人は上人の批判的方法を学べばSNS界隈も少しはまともになるだろう。もしくは、批判の的になった道隆上人や忍性上人の未読スルーや既読スルーの精神を学ぶのも良いかもしれない。

 SNSに限らず何事も疲れた時には、先徳に学んでみると良い方法が見つかるはずである。何はともあれ、鎌倉時代の仏教者は批判する側も批判される側も精神が鍛えられていることはやはり尊敬に値する。

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