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この一枚 #15 『Café Bleu』 スタイル・カウンシル (1984)

1984年3月にリリースされたスタイル・カウンシルのデビューアルバム『Café Bleu』。この3月で40周年を迎え、ネットでもお祝いが相次いだ。ジャムを解散したポール・ウェラーの渾身の意欲作であり、ステンカラーを颯爽と着こなしたウェラーがファッションリーダーとして君臨するきっかけともなる。パンクから一転してR&B、ソウル、ジャズと様々な音楽要素を詰め込んだ音楽性が、80年代に与えた影響力は絶大だった。


『Café Bleu』40周年

ユニットの先駆け

この連載もいつしか80年代が続いて、80'sの作品が5作目となります。
自分は70年代にはアメリカンロック一辺倒でLPを集めて来ましたが、80年代になるとウォークマンの登場でダビングによるカセットが主流になり、LPを買う機会は減るばかり。
そしてCDの登場と音環境も激変します。
そんな過渡期の80年代において、自分が音とファッション両面で最も影響を受けたのがスタイル・カウンシル(Style Council)になります。
この3月16日には『Café Bleu』が発売40周年を迎えポール・ウェラー本人などが、記念メッセージを発信しネットを騒がせました。

ポール・ウェラーとミック・タルボットのユニット

スタイルカウンシルジャム(The Jam)を解散したポール・ウェラーPaul Weller)により、1982年の末に結成されました。

ジャム(The Jam)

相棒はキーボードのミック・タルボット(Mick Talbot)で、元デキシーズミッドナイトランナーズのメンバーでした。正式なメンバーはこの2人だけと言うユニット形式でした。
この時期になるとバンド幻想が終焉し、それぞれの名前を冠したデュオでもない、ユニット型のグループが増え始めます。
アメリカで言うと、バンドから2人組になったスティーリー・ダンのような形態です。
イギリスではこの年1982年にワム!(Wham!)がデビュー。さらにはEverything But the Girl(EBTG)も結成され、スタイル・カウンシルと同時代を並走するのです。

その後は、シンプリー・レッドSwing Out Sisterインコグニートとユニット形式のグループがUKでは百花繚乱となるのですが、その先駆けとなるのがスタイル・カウンシルで、日本ではスタカンの愛称で呼ばれました。

スタイル・カウンシルのデビュー

スタイル・カウンシルは1983年にシングルSpeak Like a Childでデビューし、英国4位のヒットとなります。

フレンチアイビーを着こなす2人

前年にジャムはラストアルバム「The Gift」をリリース、3月には全英アルバムチャートで初登場1位と言う大成功を収めながら、同年12月には解散してしまいます。
セックスピストルズクラッシュと並ぶパンクロックの雄が見せる突然の転身でした。「現代のモータウン・サウンドを作りたい」と語った言葉の如く、R&Bやソウルに傾倒したサウンドに皆が感嘆したものです。

EP一枚を挟んで、1984年3月『Café Bleu』(カフェブリュ)が、彼らの最初の本格アルバムとしてリリースされます。
そして先行シングルとしてリリースされたのがMy Ever Changing Moods

My Ever Changing Moods/シングル盤

アルバムとは別のアレンジとなりますが、アルバムとシングルを全く別アレンジにするという仕掛けも彼らの得意技でした。

本曲はイギリスで5位にランク。
この後もアメリカでは人気が出なかった彼らですが、この曲は29位に達するウェラー自身にとってもアメリカでの最大のヒットとなります。
My Ever Changing Moodsはウェラーの伝記のタイトルにもなっていて、彼の代表作と言っても過言ではないでしょう。

自分にとっても80年代のテーマ曲のような存在で、就職して間もない時期を勇気付けてくれる特別な曲でした。

歌詞にはこのような一節があります。
屈曲した表現ですが、政治的な含みを感じる歌詞です。

Evil turns to statues and masses form a line
But I know which way I'd run to if the choice was mine
The past is knowledge the present our mistake
(悪魔が偶像化され、群衆が列をなす
でも自分の選択次第では、違った道ができることもわかっている
過去は今の我々の過ちを知っている)

ジャムに比べて音的には軟弱化と揶揄されたスタカンですが、ウェラーは硬派的に政治的な主張を歌詞に込め続けました。

USAからUKへ

大学生だった自分は御多分に洩れずシティポップ的な軟派音楽にはまっていました。が、広告業界を目指すためにクリエーター系の専門学校に通い始め、そこで知り合ったトンガった友人の影響で、音楽の傾向もUK志向に変わり始めます。1983年になるとRoxy MusicDavid BowieCulture Clubと観る来日公演も様変わりします。

また当時人気だったファッション誌の編集部でバイトを始めます。
そこで知り合ったライターから教わったオシャレな音楽がスタイル・カウンシルでした。アメリカンロック少年だった自分は、パンクムーブメントには乗り切れず、ジャムも真面目には聴くことはなく、ポール・ウェラーの名前すら知らずに聴いた、この未知のサウンドに戸惑いつつも魅了されます。
そして和訳すると「スタイル評議会」と言う、奇妙なバンド名にも魅かれました。

WAVEとフレンチアイビー

カフェバーが流行り始めたこの時期、喫茶店もカフェと呼ばれ始めた時代にアルバム『Café Bleu』が登場しました。
カフェも新鮮でしたが、「ブリュって何なのよ?」と言う謎な感じで、後にブルーのフランス語だとわかるのです。
日本では1983年に六本木WAVEが開店し、一階には「雨の木/レインツリー」と言うカフェがあって、高い料金に慄きながらもビールだけを飲むために通ったものです。
そしてレコード売場に行けば『Café Bleu』もWAVEでは売れ筋として、プッシュされていたのです。
結局『Café Bleu』は日本でもオリコン23位と好調で、洋楽の新人としては異例の売行きを記録したのです。

六本木WAVE

自分のファッション志向もアメトラ・ファッションからBIGI、PAZZO、BA-TSUなどのDCブランド好きに変化して行ったこの時期、『Café Bleu』のアルバムジャケットは衝撃でした。
フランス語のタイトル、そしてカバーもパリで撮影され、モノクロに薄らとブルーの色付けが成されたレトロなデザイン。

白のステンカラー姿は鮮烈

ウェラーの白のステンカラー姿は鮮烈。当時はサラリーマンの通勤着と言う印象しかなかったステンカラーコートを、こんな風に着こなすなんて驚きでした。ブランドはアクアスキュータムでした

そして通勤着だったステンカラーにジーンズを合わせると言うのハズしも、当時はあり得ない組み合わせ。そして敢えての折り返しの絶妙な幅。そして足元はローファーで引き締めています。
LONSDALEなんかもポール・ウェラーが愛用したことによって、人気ブランドまで上り詰めましたね。

LONSDALE

音からビジュアルまで計算尽くしなのでしょうが、当時はあまりにもカッコ良すぎて、真似るのも憚られました。
80年代に流行ったフレンチアイビーのアイコンとしても、ウェラーは日本でもオシャレのカリスマとして人気を得るのです。

ジャムでやっていたモッズはもろにロンドンですが、この頃の彼はヨーロッパ大陸に関心が移行しました。
Café Bleu』には「イギリス人から見たパリ」がセンス良く表現されていて、特にA面に顕著ですね。
巷で言う「エスプリ」がロックシーンで感じられる稀有な例ですね。
ジャムから一転してひねりの効いた内容ながら、本作は英国チャートで2位と幸先の良いスタートを切ったのでした。

A面に溢れるエスプリ

Café Bleu』のBleuは英語で言うとBlue。巷ではBlue Noteへのオマージュと言われるが、その通りの内容。ソウルからさらに本作ではジャズ、ボサノバへの全面的な接近が驚愕でした。そのエッセンスはA面に濃厚です。

Mick's Blessings(A-1)

A面のオープニングは意表を突くファンキー・ジャズ風のインスト。
ミック・タルボットのピアノ演奏だけでウェラーは参加してません。ウェラーのソロユニット感の強いスタカンですが、敢えて2人組を強調すべく相棒を立てています。

The Whole Point Of No Return(A-2)

1曲目とは打って変わって、ジャンゴ・ラインハルト風のジャズっぽいギターのバッキングと歌だけの静かな弾き語りナンバー。
まさにパリのカフェに我々は導かれるのです。
The Point of No Returnは回帰不能点という意味で、決して後戻りできない分岐点のことを言い、当時のウェラーの心境でしょうか?

Me Ship Came In(A-3)

ホーンセクションをフィーチャーしたラテンジャズ的なインスト。
ミック・タルボットのソロやホーンセクションのソロがメインとなる一曲。

Blue Café(A-4)

ポール・ウェラーがギターをジャジーに奏でるインスト。ここまで4曲中、3曲がインスト。ウェラーの歌を期待していたジャム・ファンからすると暴動ものですね。ダブルベースが使用されいます。

不器用ながらジャズを奏でるウェラー

The Paris Match(A-5)

Everything But the GirlEBTG)のトレイシー・ソーン(Tracey Thorn)がボーカルで参加したジャズバラード。EBTGのベン・ワットがギターで参加。当時無名のソーンをアサインしたウェラーの先見性に唸ります。「EBTG×Style Council」のコラボ作品と捉えるとかなり貴重です。

トレイシー・ソーンとウェラー

ここでもウェラーはボーカルは取らずに、ここまで僅かに1曲のみ。
実はこの曲ですが、以前にEPでリリース時には本人が歌っています。

EBTGの結成は1982年、デビューは1983年とスタカンとは同期のサクラ。ウェラーは気に入り、自身が設立したレコード会社にスカウトします。
EBTGは10年を経た1994年に録音されたMissingがシングルとしてリリースされ米国ビルボードで2 位を記録、スタカンを上回る世界的な成功を獲得するのです。
また、本曲のタイトルを日本のparis matchパリスマッチ)がグループ名とします。
本作中最高の聴きものですが、本人ウェラーは作曲のみでの参加と言う異例づくしで、逆に本作の意図を際立たせます。

My Ever Changing Moods(A-6)

ミックのピアノ伴奏とポールのボーカルだけのシンプルなアレンジで、楽曲の美しさが際立ち、本作はハイライトを迎えます。
この曲は先行シングルとして発表されましたが、全然アレンジが違うんですよね。
目玉曲をシングルと違うアレンジで出すところは、巧みであり、ウェラーらしいエスプリを感じます。

ライブではシングルのアレンジで激しく演奏されます。

Dropping Bombs on the Whitehouse(A-7)

和訳は「ホワイト・ハウスに爆撃」と、トランプが知れば怒り出しそうなタイトルですね。このホーンセクションをフィーチャーしたジャズ・インストでA面は幕を閉じます。
ウェラーとタルボットの共作で、準メンバーのドラマー、スティーブ・ホワイトのソロも聴き物です。スティーブ・ホワイトは当時18歳でジャズの素養があることで抜擢されました。
A面7曲中にインストが4曲でボーカルは3曲のみと驚きの構成。
デビューシングルはモッズからのソウルという変身で順当な流れでしたが、アルバムではいきなりジャズを全面に取り入れて度肝を抜きます。

B面で深化する黒人音楽

Head Start for Happiness(B-5)

ミック・タルボットが珍しく第一節を歌い、ウェラー、そしてゲストボーカルのD.C. Leeと3人のボーカルが聴けます。
この年1984年、イギリスではワム!がブレイクし、Careless Whisperなどヒットを連発しますが、以前そのワム!にいたのが黒人女性ボーカリストのD.C. Leeです。
黒人的な楽曲をやるには若干弱めなウェラーのボーカルを補助する役目で投入されますが、彼女のボーカルもやがてスタカンには欠かせない個性になります。

後には準メンバー的に加入し、1987年にはウェラーと結婚しますが、98年に離婚します。

補足メンバーを入れて4人がコアメンバー

Council Meetin'(B-6)

アルバムの最後はオルガンジャズのインスト。終始インストにこだわったのが本作でした。

LIVE AID

翌年1985年7月13日に行われたLIVEAID
自分も下北沢のワンルームマンションで、深夜でしたがテレビの前に鎮座して期待に胸を膨らましていました。
その年の5月に発売された「Our Favourite Shop」は全英アルバムチャートで1位を記録、その勢いをこの巨大イベントに持ち込んだのです。

OurFavouriteShopは全英アルバムチャートで1位に

一番手のステイタスクォーに続いて、二番手の栄誉を手に入れたスタイルカウンシルが登場。
ここが彼らの頂点だったと思います。
ここでは『Café Bleu』からシングルカットされ英国5位のヒットとなったYou're the Best Thing(B-3)を披露しています。

スタカンの中でも最もAOR的で、ソウルシンガーのように裏声を駆使したメロウの極地とも言える名曲です。

86年にライブ盤の「Home and Abroad」をリリース。
そろそろCDに転向していた自分も3枚目のCDとしてWAVEで購入しました。

スタカン解散とウェラー復活

マクセルのCMに登場するなど、日本での人気は最高潮でした。

1987年の「The Cost of Loving」は2位に、その年には来日して両国国技館でコンサートを開催します。
スタカン熱が最高潮だった自分もチケットを入手して備えますが、何と仕事で行けなくなるという悲劇に見舞われます。

88年の次作『Confesstions of a Pop Group』は最高位15位と低迷します。
そして89年にリリースされた『Modernism-A New Decade』は、所属レーベルからセールス的に厳しいと判断されリリースを拒否されお蔵入り。
一世を風靡したスタカンですが失意のまま1990年には解散するのです。

さらには1992年、ポール・ウェラーは初のソロアルバム『Paul Weller』をリリースしようとしますが、英国ではレコード会社と契約できないという、どん底を迎えます。
それを救ったのが日本で、ポニーキャニオンとの契約に漕ぎ着け日本先行販売となり、その後英国発売に漕ぎ着けます。

そして1995年にリリースされた3rdアルバム『Stanley Road』が、ソロ転向後初の全英1位に輝き、完全復活を果たすのです。
ジャムスタイル・カウンシル、そしてソロとそれぞれの時代で3期に渡り、全英1位を獲得した稀有なミュージシャンとなったのです。

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