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この一枚 #25 『You're Only Lonely』 JDサウザー(1979)

9月17日に急逝したJD・サウザーを悼む。
JDが残した最大のヒット『You're Only Lonely』(1979)。そこに至るまでの道のりをイーグルスやリンダ・ロンシュタットとの関わりを交えつつ紹介します。


JD・サウザー(本名John David Souther)が、2024年9月17日、ニューメキシコ州の自宅で78歳で亡くなりました。
決してメジャーな存在とは言えない彼でしたが、ウエストコースト・ロックシーンでは重要な位置を占めた、常に気になる存在でした。

JD songs プレイリスト

イーグルスリンダ・ロンシュタットからSouther-Hillman-Furay Band、ソロ作品、セルフカバーやカバー曲までJDサウザーの功績をプレイリストにまとめました。合計60曲、絞っても結構ありますね!

JD(JD・サウザー以下、JD)と言うと、最も知られているのは1979年の3枚目のアルバム 『You're Only Lonely』と同名のヒット曲You're Only Lonely。

You're Only Lonelyは1979年8月シングルとして発売され、全米チャートで7位、イージーリスニング・チャートで5週連続1位というヒットを記録したのです。

A LONG VACATION

そして、本作は日本の音楽シーンにも波紋を投げかけます。
1981年3月リリースされた大滝詠一のあの『A LONG VACATION』を、作らせるきっかけともなった一枚となったのです。

 80年代に入ってからかな、当時、六本木にあったうちの会社に大滝君が現れて、「ちょっとまたアルバムを作りたいんだけど」と切り出した。そのときにJ.D.サウザーの「ユー・アー・オンリー・ロンリー」をかけて、「こういうのがやりたいんだ」って彼は言った。僕は「最高。これいいよ!」って答えて、そこから『ロンバケ』の制作が始まっていく。

朝妻一郎『ヒットこそすべて オール・アバウト・ミュージック・ビジネス』

さらに映画『波の数だけ抱きしめて』のサントラにも収録されるなど、JD本人の実像とはかけ離れたイメージも作られたのです。

この映画は1982年の湘南にあるミニFMを舞台しており、サントラにはもう一曲ジェームズ・テイラーとのデュエット曲のHer Town Too(憶い出の町/1981)も収録されており、当時の日本ではJDはミーハーな存在だったことが窺われ、自分の周囲でもサーファー連中の御用達ではありました。まあ中高からJDを聴いて育った自分にしては、「何を今さら」と鼻で笑ってましたが。

ロイ・オービソン&エヴァリー・ブラザーズ

ソロアルバムは出していたものの、世間的にはむしろイーグルスリンダ・ロンシュタットの作曲者として知られていたJD。或いはリンダの恋人として知られたJDですが、セールスは低調で、まさに起死回生のヒットとなりました。
また本人は否定していますが、ロイ・オービソンOnly The Lonelyへのオマージュとしても知られています。

そしてもう一曲、本作で知られるのはWhite Rhythm and Blues(A-4)です。
エヴァリー・ブラザーズフィル・エヴァリーが見事なハーモニーを付けており、AORと括られがちな本作ですが、ロイ・オービソンと言い実はノスタルジック志向のサウンド作りが施されていました。

これは前年にリリースされたリンダ・ロンシュタット「Living in the USA」で歌われた楽曲のセルフカバーでした。

JDは長らくリンダと恋人関係にあったことでも知られリンダは合計8曲もJDの曲を取り上げてますが、この曲がその最後となります。
この頃は2人は既に別れていたようですが、ミュージシャン同士の関係は途切れることなく続きました。

テキーラ・サーキット

JDは1945年生まれで、『You're Only Lonely』発売当時は既に34歳。
遅咲きと言うか、裏方時代が長くやっと表舞台に躍り出た感じです。

簡単に彼の略歴を紹介すると、デトロイト生まれでその後にLAに移住。
同郷のグレン・フライと知り合いルームメイトとなり、1969年Longbranch Pennywhistleという名前でフォークデュオとして短期間活動します。

Longbranch Pennywhistle

そしてジャクソン・ブラウンと出会った2人はブラウンと同じアパートに部屋を借り、3人の共同生活が始まるのです。
彼ら3人やドン・ヘンリー、当時JDの恋人だったリンダ・ロンシュタットなどのコミュニティをテキーラ・サーキットと呼んだそうです。当時は無名の彼らはLAのトルバドゥールに集い、夜な夜な酒に酔い、音楽を語り合ったと言います。
彼らはビジネスでも私生活でも助け合う相互扶助コミュニティとして、ウエストコーストロックの繁栄を築くのです。
そして彼らのビジネス的な受け皿となったのが、デヴィッド・ゲフィンアサイラムレコードでした。

John David Southerデビュー

JDとフライがブラウンのデモテープ作りに協力してできたのが、Jamaica Say You Will。
そしてブラウンのデモテープはゲフィンの手に渡り、1972年1月デビューアルバム「Jackson Browne」アサイラムレコードよりリリースされました。

そしてフライはイーグルスを結成してブラウンから譲り受けたTake it Easyでデビュー
JD
はイーグルスに加入する話もありゲフィンは乗り気だったが、ランディ・マイズナーの反対で暗礁に乗り上げます。
イーグルス
のデビューアルバム「Eagels」は1972年6月に発売されました。

JDを応援したいブラウンは、ゲフィンに紹介し、アサイラムレコードのオーディションを受けさせたのです。

そして1972年、デビュー・ソロ・アルバム『John David Souther』がリリースされます。
しかし、イーグルスのTake it Easy(12位)、ブラウンのDoctor, My Eyes(8位)のようなヒットを生むことなく全米206位に沈むのでした。
2007年にイーグルスは「Long Road Out of Eden」で本作からHow Longをカバーしますが、これはデビュー当時のイーグルスのレパートリーでもありました。

Desperado

翌年1973年にはイーグルスの2枚目『Desperado』の無法者と言うアルバムコンセプトをフライ、ヘンリー、ブラウンらと共に考案。Doolin Daltonをフライ、ヘンリーとブラウンと共に共作します。
1枚目が撃沈したJDはSSWでの成功は脇において、ソングライターとして裏方の道を歩みます。

Desperado
のジャケットにも登場

JD本人が歌うDoolin Daltonはかなりレアです。

当時の恋人リンダ・ロンシュタットの「Don't Cry Now」をプロデュースし、同年にリリースされます。タイトル曲Don't Cry NowなどJDの作品が3曲も選ばれ、またDesperadoがカバーされJDもギターで参加しました。

The Best of My Love

筆者がJDの名前を最初に目にしたのは、初めて手に入れたイーグルスのLP「On The Border」のクレジットです。当時ヒットしていた『呪われた夜』(One Of These Nights)をレコード屋で買いに行くと品切れで、一枚前のこれを手に入れました。
そこにはJohn David Southerと言う名前が3曲(A-2,B-1,B-5)にクレジットされていて、イーグルスは他人の手を借りて曲を作るのかと少々意外に思い、何者か?と思いJDのこと調べ始めました。

You Never Cry Like a Lover、James Dean、Best of My LoveにJDの名前が

On The Border」は当初73年9月ロンドンで、デビュー作と次作をプロデュースしたグリン・ジョンズのプロデュースにより制作が開始されます。
しかし録音は難航し、ドン・ヘンリーから電話を受けたJDはLAからロンドンに飛び、Best of My Loveをフライ、ヘンリーと完成させ共作者としてのクレジットを得たのです。
その後はバンドと揉めたジョンズは2曲のみ録音し契約解除され、残りはビル・シムジクに代わりLAで録音されたのです。「On The Border」はイーグルス3枚目のアルバムとして1974年3月にリリースされます。
皮肉なことに本作からのシングル2枚は不調で、解雇したジョンズによるBest of My Loveが1974年11 月最後にカットされ、バンド初の全米1位となりました。

Best of My Loveを皮切りに、New Kid in Town(1976)、Heartache Tonightと共作者として3曲のNo. 1ヒットに名を連ね、JDはそれ相応の印税収入を得たのです。SSWとしてはそこそこの成功だったJDですが、ソングライターとしての印税収入で寡作ながらも裕福な生活が送れたのです。
フライ、ヘンリーそしてリンダと言うテキーラ・サーキットの友情が彼に幸福をもたらしたわけです。
74年のリンダの出世作「Heart Like a Wheel」に収録されたJDのFaithless Love。同年の貴重な2人のライブでのデュエット音源です。訳せば「不誠実な愛」となり、本作にはJDの後にリンダの恋人となるローウェル・ジョージWillin'も収録されていて、恋がうつろう微妙な時期の作品。

こちらはシェリル・クロウによるNew Kid in Town。イーグルスとの共作は補助的な側面が多いのですが、これはJDがメインで書いた曲です。

ソングライターJD

ソングライターとしての活動が目立つJDだけにセルフカバーは多く、『You're Only Lonely』にもセルフカバーが収録されています。
The Last in Love(A-3)は、リンダの後継的な立場にいたニコレット・ラーソンのために書いた曲でフライとの共作。1978年のデビュー作「Nicolette」に収録されました。

The Last in Loveは1992年にはカントリー歌手のジョージ・ストレイトがカバー、映画『Pure Country』のサウンドトラックでも使用されました。

その他JD作品のカバーは数多く、Bonnie Raittはデビュー作収録のRun like a Thiefをカバー。

前述のHer Town Tooジェームス・テイラー&ワディ・ワクテルとの共作ですが、1998年にはブライアンウィルソンWhere Has Love Been?を共作し、共作者としてはウエストコーストの第一人者となります。

Souther-Hillman-Furay Band

さて話は1973年に戻ります。
イーグルスの次作の『呪われた夜』(1975)ではJDの名前は見当たりませんが、それはJDがあるバンドに参加して多忙になったからです。
ゲフィンはJDを何とか有名にすべく、1973年にThe Souther-Hillman-Furay Band(SHF Band)と言うバンドを結成させます。
SoutherはJD、Hillmanは元バーズ、元マナサスクリスヒルマン、Furayは元ポコリッチー・フューレイと言う3頭スーパーグループで、CSNの後継となるべくゲフィンが仕掛けたのです。
さらに元マナサスポール・ハリスアル・パーキンス、ドラマーは売れっ子セッションドラマーで元デレク&ザ・ドミノスジム・ゴードンと演奏陣も豪華です。そして1974年、華々しくデビューしたバンドは「Souther–Hillman–Furay Band」をリリース、全米アルバムチャート11位と幸先の良いスタートとなります。

Souther–Hillman–Furay Band

JDの書いたBorder Townを珍しいSHF Bandのライブ音源です。

翌年にはSHF Bandは2nd「Trouble in Paradise」をリリースします。本作のJDの楽曲は充実しており、Prisoner in Disguiseはリンダにカバーされて、「Prisoner in Disguise」(哀しみのプリズナー/1975)とアルバムのタイトルともなります。
リンダはJDの曲名を3つもアルバムタイトルとして採用(一部借用の「Simple Dreams」を含む)。JDが恋人関係を超えて、リンダの心の声を代弁してたような想像を超えた深い繋がりがあったように思えます。

が、SHF Bandはフューレイパーキンスがある宗教に狂信的となり、不協和音が生じてバンドは空中分解しJDはソロに戻ります。

そしてこの表題曲Trouble in Paradise(B-5)を『You're Only Lonely』でセルフカバー、再演したのです。
メンバーはギター;ダニー・コーチマー&ワディ・ワクテル、スティール・ギター;ダン・ダグモア、ベース;ケニー・エドワーズ、ドラム;リック・マロッタ ピアノ;ドン・グロルニックデイヴィッド・サンボーントム・スコットがサックスという精鋭揃いです。

JD,Linda &Ronin

また同時期の1975年にニッティー・グリッティー・ダート・バンドThe Moon Just Turned Blueを提供。SHFのポールハリスも参加しています。

The Moon Just Turned Blue(B-2)も『You're Only Lonely』でセルフカバーされました。ロカビリーサイドと呼ばれるB面にはロカビリー調のアップテンポな曲が並びます。

また、実はYou're Only Lonely(A-2)は、SHF Bandのリハーサル時に書かれていて、随分寝かされてからワディ・ワクテルの助言によって6年後に陽の目を見たのです。JDとしては異色の作風ですが、お蔵入りせずに復活し見事ヒットに結びついたわけで、ワクテルのナイスフォローと言えます。
コーラスにはブラウン、ヘンリーなどが参加し、テキーラ・サッキットはJDをアシストしたのです。

Black Rose

SHF Bandを解散して再度ソロシンガーとなったJDは1976年に2作目「Black Rose」をリリース。

この年にはイーグルスは「Hotel California」を、ブラウンは「The Pretender」をリリース、テキーラ・サーキットの2組は頂点を迎えます。
そして、満を持してJDは力作『Black Rose』を、ピーター・アッシャーをプロデュースに迎えて制作、多くの豪華ミュージシャンが参加します。
バックボーカルはテキーラサーキットの仲間達、リンダ、グレン・フライドン・ヘンリーネッド・ドヒニーデヴィッド・クロスビーアート・ガーファンクルと言った大物も。
演奏の軸は、当時ジョージ・ハリスンダークホースからデビューしたセッション集団アティチュードからジム・ケルトナーダニー・クーチマーポール・ストールワースが参加し、ファンキーなサウンドを聴かせました。
タイトル曲のBlack Roseには、そのケルトナークーチマーストールワースワディ・ワクテル、アンドリュー・ゴールドが加わり、旧友のフライヘンリーネッド・ドヒニーがコーラスで支援しました。

しかし、本作にはジャズテイストの曲が3曲も収録されていて、JDとジャズが結びつかず自分の中で謎が残っていました。
まずは、スタンリー・クラークがDouble Bassを聴かせるSilver Blue。当時、リターン・トゥ・フォーエヴァーでバリバリに活躍していたクラークの参加には驚きました。これもリンダに提供したもののセルフカバー。

次は、Midnight Prowlですが、これにはジャズトランペットの第一人者ドナルド・バードが参加しました。そしてこれにローウェル・ジョージのスライドを合わせるセンスは驚きです。今ではJDの中でも一番好きな曲です。

Doors Swing Openには、同年のジョニ・ミッチェルの『Hejira』に参加したチャック・ドマニコ(ウッドベース)、ジョン・ゲリン(ドラム)がそのまま参加。ジョニのジャズセンスが乗り移ったようなサウンドです。

自分はウエストコーストロック史に残る力作と(勝手に)思っているのですが、アルバムチャート85位と期待とは裏腹に撃沈。

その後にアサイラムを離れコロムビアと契約して3年後にリリースした『You're Only Lonely』で遂にブレイク。
ですが、シングルヒットしたもののアルバムは41位と過去最高位ながら、意外にも伸び悩んだのです。

JDとジャズ

1984年に「Home by Dawn」をリリースしたものの、その後のJDは長きに渡り沈黙期間に入るのです。
1997年にはJDの次のリンダの恋人でもあったローウェル・ジョージのトリビュートアルバムに参加しますが、断続的な活動に留まります。

JDはカントリーを熟知しているものと捉えられがちですが、実際に彼がカントリーを知ったのはLAに越してからでした。
JDにカントリーを教えたのは、リンダ・ロンシュタットで「彼女は私のカントリーミュージック教育を担っていました。彼女が私にカントリーミュージックを教えてくれたのです。」と後年語りました。

そしてJDが大のジャズファンであったことなど誰も知らず、自分もその例に漏れません。
長年謎だった「Black Rose」へのスタンリー・クラークドナルド・バードなどのジャズ系ミュージシャンの参加。
彼が2000年以降にリリースした4枚のアルバムを聴き直すと、ジャズ愛に溢れていることに気づき、やっとそこと線で繋がるのです。
父がビッグハンドの歌手で、最初に手にした楽器がサックスで、元々はジャズドラマーだったと言う彼のルーツを知ると納得できました。

ナッシュビルでのジャズライフ

そして2000年代には拠点をLAからナッシュビルに移し、現地のジャズミュージシャン達と交流するのです。その中にはジャズとブルーグラスの実験的な融合で知られるバンジョー奏者ベラ・フレックがいました。

2008年に24年ぶりのリリースとなった「If The World Was You」は、5人編成のジャズアンサンブルによるライブ録音でフレックやそのバンド、フレックトーンズのメンバーが参加。

フレックトーンズにいたサックスのジェフ・コフィンも参加。2023年のグラミー賞で最優秀コンテンポラリー・インストゥルメンタル・アルバムにノミネートされたこともあるコフィン。コフィンや彼のバンドのChris Walters(ピアノ)をパートナーにナッシュビルを拠点にして、「Natural History」(2011)、「Midnight in Tokyo」(2012)、「Tenderness」(2015)とジャズ的編成の作品をリリース。
レス・ポール・トリオのメンバーだったジョン・コリアーニレス・ポールの追悼イベントで共演。

Natural History」ではイーグルスのヒット曲などをジャズ風のコンボで再演したのです。

コール・ポータージョージ・ガーシュインにインスピレーションを受けたと言う、2015年の「Tenderness」ではラリー・クラインをプロデュースに起用。クラインと言えば、ジョニ・ミッチェルと一時は夫婦関係にもあり、ジョニを始めマデリン・ペルーハービー・ハンコックなど多くのジャズミュージシャンを手掛けた名プロデューサーでありベーシスト。コフィンら常連に、2024年にグラミー賞獲得したビリー・チャイルズ(ピアノ&アレンジ)を始めリズ・ライト(ボーカル)、ディーン・パークス(ギター)、ジェイ・ベルローズ(ドラム)の精鋭たちも参加してJD流のジャズを繰り広げたのです。

ビリー・チャイルズらのレコーディングメンバーとのライブ。

この自分のルーツに捧げた素晴らしい遺作を残して、JDは逝去したのです。

最後に晩年のインタビューで、You're Only Lonelyのカバーについて言及している箇所があるので紹介します。彼の柔軟性、受容性を表す人間味を溢れるコメントです。
彼がオススメするSHE という台湾のガールズバンドによるYou're Only Lonelyでこの回を締めます。

サウザー:自分の曲、特にしばらく前からある曲の新しい録音を聴くと、いつも嬉しくなります。良い演奏かどうかなんて考えもしません。ただ興味をそそられるし、解釈が奇妙であればあるほど良いのです。皆さんは聞いたことがあるかどうかわかりませんが、SHE という台湾のヒップホップガールズバンドが「You're Only Lonely」を素晴らしいバージョンで演奏しています。コーラスごとにヒップホップのヴァースが入るんです。この台湾の小さな女の子たちは 15 歳くらいに見えます。実際に楽器を演奏しているわけではないと思います。一人はターンテーブルを持っていて、一人はエレキギターを持っていて、一人はキーボードを持って演奏しています。でも、彼女たちはただ歌っていて、曲に忠実に従っていて、コーラスごとにヒップホップのヴァースが入るんです。YouTube にあります。すごくクールですよ。

The Tender Hand of JD Souther
RIP JD


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