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空白を満たしなさい-桃と父〜なぜ空白を満たすのか〜-

作中に何度か出てくる謎の「桃の絵」
一体何を表しているものなのでしょうか?
そして、なぜ「空白を満たしなさい」なのでしょうか?

どうもイチニシチです。
さて、個人的に書くのが大好きな番外編です。

平野啓一郎さん著の空白を満たしなさいに関して
以前の記事(空白を満たしなさい-俺は、お前の父親だ)で解釈をしていきました。

今回は、前回とは違う箇所の解釈、主人公徹生の息子である璃久がよく描いていた桃の絵に関してです。

ネタバレを存分に含む内容となっているのでご注意です。

どんぶらっこ

千佳が買い与えた大きなスケッチブックは、もう二冊目がいっぱいになろうとしていた。璃久はその画面を、相変わらず、桃だらけにしていた。

璃久は桃の絵ばっかり描いているようです。

「ももじゃないよー。どんぶらっこだよ!」

そして璃久は、それは桃ではなく「どんぶらっこ」だと主張します。

「カプチーノ(犬)は、おににころされて、どんぶらっこでいきかえったんだよ!」

「どんぶらっこ」とは、桃のような見た目をした、誰かを生き返らせる装置のようです。

「これはだーれ、りっくん?」
璃久は、描きかけだった星を一つ塗ってしまうと、
「お父さん。」と言った。
「おとうさん?……おとうさん!?」徹生は、自分を指差しながら訊き返した。璃久は、頷く代わりに徹生を見上げた。
同意をえられるかどうか、心配しているような顔だった。息子のそんな表情を、徹生は初めて見た。
「おとうさんかあ!はは、おとうさんも、ももにのってもどってきたのか!」

父である徹生も「どんぶらっこ」に乗って戻ってきた設定になっているようです。つまり、「どんぶらっこ」=「父を生き返らせるもの」と捉えています。

これまでは、母から話を聞かされていた死んだ父との分人が大きすぎて、生きている父のために、うまく分人が出来なかったのではないか。それが、時間をかけて、ちょっとずつ育ち始めている。

作中のこれまでは、璃久は父である徹生に対して、どこかよそよそしい、受け入れきれないような、ツンツンした態度を取っていました。それは、璃久の中で父との分人がうまく形成できていなかったからなのです。

璃久は、この奇妙な現実を理解しようとしている。この絵には、きっと、そういう意味があるんだ。桃に包まれて、死んだ人間がまた戻ってくる。果汁をたっぷり含んだ、甘い桃の実から、瑞々しく生まれ直す!

そして、この「どんぶらっこ」の絵は、璃久が自分なりに死んだ父がいきかえったという現実を理解し、父との分人を形成してきていることが表れています。

どんぶらっこから桃へ

「璃久は?」
「ご飯食べて、また絵を描いてる。このところ、描いてなかったのに。」
「また桃?」
「桃。」

作中の終盤、璃久はまた絵を描きます。

「ねえ、りっくん。どうしていつも、もものえばっかりかいてるの?」
「おとうさんが、よろこぶから。」
「じゃあ、……ももじゃなくてもいいの?おとうさんが、りんごかいてっていったら?」
「おとうさんは、りんごじゃなくて、ももがすきなんだよ。りっくんがももかいたら、いつもよろこんでるよ。ももばっかりかってくるもん。」

璃久は今度ははっきりと、「どんぶらっこ」ではなく「桃」と言っているのです。(以前は「ももじゃないよー。どんぶらっこだよ!」と言っていたのに!)これは一体どういうことでしょうか?

ここで璃久は「桃」=「父を喜ばせるもの」と捉えています。
どんぶらっこのときは「どんぶらっこ」=「父を生き返らせるもの」でした。そして「どんぶらっこ」とはあくまで想像上のものであり、曖昧な存在であったのに対し、今回ははっきりとした存在である「桃」へと変化しています。

これらから、璃久の中で、徹生との分人がよりはっきりと現れてきたことを表現しているのではないでしょうか?
「どんぶらっこ」は、父と関連したあくまで想像上の曖昧な存在でしたが、それから「桃」というはっきりとした、父が好きである(と璃久が思っている)ものへと変化しています。

「どんぶらっこ」の絵が璃久の父との分人を表していたことは明示されているので、これは確かなことでしょう。

父と過ごす時間が増え、曖昧だった分人がより確かなものに変遷するにつれ、「どんぶらっこ」は「桃」になったのです。

なぜ空白を満たす必要があるのか

この章は少し私見入ります。

さて、物語の最終盤、徹生は生き返った自分が再び死ぬことを悟り、息子である璃久に対して、自分が死ぬに至った経緯をどう伝えるべきか悩みます。

そして、幼い今の璃久に直接伝えるのは酷だということになり、真実を告げるビデオを残すことになります。

「いつか璃久も、真相を知りたくなる時が来ると思う。隠されていることに気がついて。何か満たされないものがあるって、悩み始めるかもしれない。その日のために、俺は、自分の言葉で璃久に説明したいんだ。
それをUSBメモリーに記録して、缶詰にして保存しようと思ってる。それで、ーいつか璃久が十分に大人になって、真相に耐えられるなった時には、伝えてほしい。自分でその缶を開けて、『空白を満たしなさい』と。」

璃久がいつか真実を知りたくなったときのために、ビデオを見て、空白を満たさせようとしています。

しかし、「空白を満たす」ことには、単純に徹生の死の真実を知る以外にも、もっと重要な役割があるのではないでしょうか?

このあたりは作中の文章で明示されていないので、あくまで私見にすぎないところは大きいですが、璃久に、徹生と同じ失敗を繰り返させない効果があるのではないかと考えています。
具体的には、「父」の過度な理想化により、「父」に対する分人の影響によって殺されることを防ぐことができるのではないでしょうか?

以前の記事(空白を満たしなさい-俺は、お前の父親だ)で解説した通り、徹生の死因は、自分が幼い頃に亡くし、理想化していた「父」という存在の影響を受けた分人に圧迫されたことでした。

徹生に対しての璃久の分人はどうでしょうか?前の章まで見てきた通り、徹生に対する璃久の分人は、どんぶらっこが桃になったように、徐々にはっきりとしてきました。しかし、再び徹生が亡くなることによって、また、1回目の死因がはっきりしないことによって、徹生に対しての分人は璃久にとって曖昧なものに変化するのではないでしょうか?

分人が曖昧化し、過度に理想化するようなことがあれば、自分を追い詰めることがある、というのが徹生の失敗でした。
そのため、自分の真実を告げる映像を見せ、「空白を満たす」ことは、
徹生に対しての璃久の分人の空白を満たし、過度な理想化を防ぐ効果があるのではないでしょうか。もしその空白を満たすことができれば、璃久は徹生のように理想化された分人に苦しめられることはない人生を送ることができるのではないでしょうか。

だから、「空白を満たしなさい」なのです。純粋に真相を知る手掛かりにしてほしい、というのはあるのでしょうが、この作品の大きなテーマの一つが「分人」による影響力なので、タイトルに持ってきたからには何かあるのではないかと思います。


今回は以上です!また書きたいことがあったら書いていきます。
意見・感想等ありましたらコメントお待ちしてます〜

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