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はじまりとおわりとそのあいだ

(221127)まや
無償の愛という言葉があるけど、子供から親に対する愛は本当に無償だなあと思う。
わが家の1歳児は絶賛ママ大好き期で、たった一日会えないだけで「ママー!」と何度も思い出し泣きしてくれたみたい。

10ヶ月間お腹の中にいて一心同体だったとか、生まれてからずっとお世話をしてきたとか、そりゃああるけど、
ほんとのところは、ここまで必要とされる理由があまり思いつかなくて、
1歳を過ぎるとほとんどの栄養をご飯から摂ることができるし、そもそも現代ならミルクがあるから、生まれたその瞬間から、私がいなくても生きていける。
それでも本能というのはものすごく強いみたいで、理屈を超えて求めてくれる存在にびっくりして、感動もする日々。

大人になると、たった一日誰かに会えないだけで寂しくて泣けちゃうなんてまずないじゃない?
自分も幼い頃母に対してそうだったのかな、と思いを馳せるけど、あんまり思い出せないし実感が湧いてこない。

娘も将来忘れてしまうんだろうと思うと、私だけの中に残る思い出なんだなあと不思議な感覚。

干城さんは数年前にお父さんが亡くなられたじゃない。前直接あった時に聞いたかもしれないけど、感覚や価値観が変わったりしたことがあったら、教えてほしいな。(書いてもよければ。)


「いる」ということ、「いない」ということ。

(221201)干城
(実際の細かい事情はここでオープンに書くことではないから避けるとして。だから、抽象的な話になってしまうのだけど)

価値観は、変わらなかったように思う。
感覚は、まあ日々変わるのだけど、その当時濃くなったものがあっただろうし、今は潜んでいるようなものもあると思う。

環境は変わった。
「いる」が「いない」になるのは、もう環境の変化だよね。

「いない」ということで整理されるものが沢山あることを知ったし、
「いる」ということはそれだけでとてもパワーがあることだと知った。

ある人が生きているうちに、その人の所有しているものや、その人に属しているもの、その人が影響を持っているものとかを、
(当人以外はもちろんなのだけど、たぶんこれは当人も含め)片づけていくことって、かなり困難なんだよね。

死んでからも影響を残すものはあるけど、明らかにその人の何かが離れて、意味を成さなくなるものもある。

一人の人の膨大さとちっぽけさを感じた。

人生は何の取り返しもつかなくて、どうしようもない、ってことを知ったというか、
その人とのコミュニケーションが全く失われてしまう、ということが突きつけられるのが、やっぱりすごい大きな体験だった。

記憶のなかの父に、もうどうすることもできないんだよね。
だからといって、生きている父に何ができたかといえば、僕にはほとんど何もできなかった。

まやが先月に書いた「ただ一緒にやってくれる人の存在が欲しかった」って、真理だなって思った。なんかもうそれしかないっていうか、それだけでいいっていうか。
で、この返事を書きながら、「一緒に」ができないとき、人はどうやって相手と関係していくんだろうって思った。

それから、継ぐとか繋いでいくって何なんだろうって、ぼやぼや考えたりしてる。


(221207)まや
1週間が風のように去ってしまった。
犬はとうとう保育園に行き始め(そんなものがあるって最近知ったのだけど)、師走って感じの12月を過ごしてる。

「いる」が「いない」になるのが環境の変化だってすごくいい表現だなあ。
死ほど強烈な「いない」じゃなくても、卒業とか退団とか破局とか、その程度の「いない」でもいろいろなことが変わるよね。
環境って言葉には場所のイメージが強かったけど、人が作るものなんだなあ。

「いる」ことのパワー、いろんな意味がありそうだけど、影響力ってことなのかな。
生きてるだけで影響してるのかしら。
当たり前みたいに生きてるから、自分自身の影響力ってあまり見つめたことがない。

あまり会わなくても、連絡をとったりしなくても、ただ生きてるって事実が影響力を持つものなんだろうなあ。きっと。
コミュニケーション、とれてなかったとしても、生きてるからまだとれる可能性があるっていうところが大きく違うのかしら。
やっぱり家族の死ほどの喪失は未知の体験だから、よくわからない。

「一緒に」ができない時、人はどうやって相手と関係していくんだろう。という問い。
自分の中に存在する相手と関わるのはできるよね。関わってると言えるか微妙だけど関わってるような気もする。

結構脱線するのだけど、中学校の時に好きだった男の子が何故か頻繁に夢に出てくるんだよね。
好きだったって言っても中学生の感じだからファッションっていうか、恋に恋してたっていう感じだし、
付き合うどころか告白とかもしてないし、正直特別に仲良かったわけですらなくて、卒業してからもずっと好きだったとかも全くないのだけど。
なぜか時々出てきて、それはちょっと関わってる感ある。干城さんにとってのお父さんと並べるのに躊躇するくらいしょーもない話だけど。笑

継ぐとか繋いでく、どんなことを考えてるのかもう少し聞いてみたいです。


「一緒に」ができないということ/継ぐとか繋いでいくとか

(221209)干城
犬の保育園なんてあるんだ。訓練所って感じのものだったら知ってるけど、それより軽い?感じなのかな。

可能性がなくなる、っていうのは、ある種、想像できなくなる、みたいなことなのかもしれないなと、ふと思った。
なんだろう、すごく人間的な感じ。
喪失を感じることって、物自体だったら、例えば、今日は餌がないな、みたいに、動物にもあるのかもしれないけど、
今後全く餌が与えられないんだ、みたいな喪失感って、きっと動物はもたないじゃない?
って、なんか正しい喩えではないのかもしれないけど。
死ってのが、かなり決定的に、一線を画して、ゼロなもので、
その人との関係、これからの可能性、みたいなものが、想像できなくなる、みたいな。
なんかすごくあやふやなまま書いてる気がするけど。

記憶のなかでのとか、私にとってのだったら、関わるってことはできると思う。
ただ、私のなかの相手の像が変化していくことはあるだろうけど、
相手そのものが変化しない、変化しようがない、っていうのは、
関わるっていうことの範疇ではあるだろうけど、
何かは決定的に違うなぁと感じてる。
私にとっての何かにはなるのだけど、あの人にとっての何かには、もうなりようがない。

でもそのまやの夢の話はなんかいいよね。
それもやっぱり、関わってるってことの1つだと思う。
記憶と今が出会うというか。
もしかしたらこれも、継ぐとか繋いでいくの1つって言えるような気がした。

過去が現在を更新していくというか。
や、かなりぼやぼや考えてるから、ほとんどなんの形にもなってないんだけど。

なんだろう、自分が死んだあとに、いまこの身の回りにあるものを誰が処分するんだろうとか、
たぶんそんなことでもあるんだよね、継ぐとか繋いでいくって。

うーん、こっちの方が書けないな、継ぐとか繋いでいくって何なんだろう。
ほとんど何も考えられていないというか、いまは考えてることに方向性も形もないんだな。

子どもをさ、育てるって方向の話はこれまでにしたけど、
例えばさ、自分の何かを継いでいく存在みたいなふうに考えたりする?


(221211)まや
子どもに対して、自分の何かを継いでいく存在。
身の回りのものとか確かに、良くも悪くも子どもに託していくのが人だもんね。
全然考えたことなかった。

私結構そういうところ脳内お花畑な部分で、自分の親に対しても子どもに対しても現実感を持ててないのだよね。
お金とか物とかじゃなくて、もっと精神的なこととか教育的なこととか、そういうところにばかりフォーカスしてしまう。

多分、母の育て方というか生き方自体がそういう感じだった。
私の母は今60代前半で健康なんだけど、何年か前から終活っていうか物をめちゃくちゃ捨て始めてて。
遺したくないって思ってる感じが人一倍するんだよね。
それでももちろん遺るものってたくさんあるんだろうけど、「骨も海に撒いてほしい」的な価値観の人だから、私も結構その感覚は強いのかも、

娘のことを、もしくは母の娘としての自分のことを、継いでいく存在と意識することがあるとすれば。
やっぱり精神的な部分ばかりだなあ。
私の中からふと出る母とそっくりな言い回しだったり、価値観だったり、あー似てるんだなあって思う。
娘にもきっと私のそういうところが勝手にうつって遺っていくんだろうなあ、とも思う。だからこそ、自分と子どもは別の人間なんだって忘れないように意識してる。

だけど干城さんが書いたように、

ある人が生きているうちに、その人の所有しているものや、その人に属しているもの、その人が影響を持っているものとかを、(当人以外はもちろんなのだけど、たぶんこれは当人も含め)片づけていくことって、かなり困難なんだよね。

これってとても響く。

人が死ぬって大仕事なんだなあ。その死のすぐ側にいる人には、もしかしたら本人以上にもっと。
私も母も何でもかんでも捨ててから死にたいと思ってるけど、絶対無理だもんね。笑

もう12月も11日、今年も終わるんだね。信じられないよ。


<いま>ってものへのフォーカス

(221213)干城
ありがとう。
書いてもらって、これはそれなりに個人的なことで、何気に人生の問いなんだなぁと思った。
<いま>ってものへのフォーカスの、濃淡を考えた。

僕はたぶん基本的に、<いま>へのフォーカスが薄いんだよね。
生きてることの現実感が薄いというか。
だから、役割があるっていうのが、とりあえず、とても生きやすい感じ。
でも自分の人生を、どうすれば良いって、ないじゃない?
たぶんみんなどこかで決めたり、あるいは一生の役割みたいなものを持ったりすると思うのだけど。

自己分析みたいなことを、数年前に初めてやって。
僕は結局、仲間とワイワイやれたらいい、みたいな。
自分がどうなるってことより、自分の周りの環境をどうしたいかってことの方が、自身の希望として眼前に出てきて。
いま、割と悪くないっていうか、それなりに恵まれていて。
って、この言い方は周りの友人には失礼なのかもしれないけど。
恵まれているゆえに、自分を変えていくというか、更新していくというか、
一般的な言葉でいえば、自分を成長させていくことに、あまり体重を乗せられてなくて。

なんか、そういうときに、縦軸としてっていうか、自分の何かを継いでいく存在があればいいなぁという。
これ、中年の、家族や子どものいない人の、人生に体重を乗せられない人の、たぶん一般的で、かなり明け透けな悩みだと思う。
自分以外の対象への何か、を持てないと苦しいのだよね。

生き方が多様化しているのかは分からないけど、他の誰かの生き方にふれるのは、どこか少し助けになるように思う。
僕はまやのお母さんのことを知らないけど、ここでの描写とまやを通して、勝手に僕は受け取るものがあって、
それはうまく言葉にできないのだけど、何か別の風を僕に運んでくれて、それで、なんだか少し心地良い気分を感じさせてくれる。

うん。この記事ではこのあたりで、よいお年を、かな。


(221215)まや
自分を成長させることに体重を乗せられないのは、私も一緒だよ。
でも、子供のために過ごす時間が長い分、反動なんだろうけど、自分のために時間とかエネルギーをかけずに居られないって感じで、最近。
昔よりずっと動いて、時間を有効活用して、うじうじ悩み続けなくなれたよ。
そういう意味では、年はとってるけど何年か前より若々しいかも、気持ち的に。

干城さんの抱える苦しさ。
誰かの抱える苦しさを文章にしてもらえるのって、なんだか貴重だな。
他人事だからになっちゃうけど、単純にすごく興味深い。
苦しさの中にこそ、いまのその人のリアリティ(って言葉でいいのかわからないけど)を感じられるからだろうなあ、きっと。

母の生き方を受け取ってくれるだけで、私もなぜだか救われる気持ちがする。
そう考えると、こうやって間接的にでも、
ほんの少し語られるだけでも、あるいは語られなかったとしても、
何か継いでいくものってあるんじゃないかなあ。無意識下で。
人ってつくづく、影響せずには死ねない生き物なんだね。
良くも悪くもあと濁しまくり、それが人間って感じがしたよ。

年末年始楽しみだな。
来年もまた、ぽつぽつ、話そー。



小角まや、干城の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/m5e18eb4b7f06


読んでくださり、ありがとうございます。 このnoteの詳細や書き手の紹介はこちらから。 https://note.com/beyond_it_all/n/n8b56f8f9b69b これからもこのnoteを読みたいなと思ってくださっていたら、ぜひサポートをお願いします。