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隠れていた自分と出会うプロセス

忙しくて書けなくなってきた。いろんなことが重なりすぎて。

やっぱり、やりすぎてるんだろう。

もしかして、私はもう十分やっているのかもしれない。

私がやるべきことは、「きゃきゃっ!たのしー♪」っていうことだけのはずであるのに。

「これを書かずにいられようか」ってことがあるまでは無理して更新しないでおこう。

自分の伝えたいことをあるところで表現したら、そこでなにか伝わったという実感があり、あ、よかった、、と思っている。だから、あれもこれもとがんばらなくてもいいのかもしれない。

これだけは書いておこうかな。自分のたどってきたプロセスをコンパクトに。

生育歴の中で「自己否定」の感覚が強く生まれた→

他者からの承認を必死で求めるようになる→

それが得られないと非常に苦しむ。共依存など。→

この苦しさの解決策を求めてさまよう→

なかなか答えにいきつかない。問題はしつこく続く→

あることをきっかけに強烈な自己否定感情におそわれ、抑鬱的になる→

こんな状況を生んだものへの怒りが出てくる→

精神的などん底に→

魂の休息を求めて海外へ→

ある場所で「ええ!これが愛っていうものなのか!!」という感覚に初めてなる→

この私を愛してくれている存在がある、と感覚的に知る。神的な、絶対的な、無条件の愛との出会いを経験→

そうか、ということは、私は自分のことを大事に思えないけど、神が私を愛してくれるのだから、自分は自分を大事に思えなくてもいいんだ、これで解放される!→

そこから様々な感情がでてくる、親への怒りも含め出てくる、たくさん泣く→

カウンセリングや黙想を通して癒やしが少しずつ進む→

でもそれだけじゃダメだった。同じパターンの苦しみが続く→

神への恨みがでてくる。なんで私を守ってくれなかったのか!という怒り。→

そして、神が自分を愛していても、自分が自分を愛していなければ、その愛は完全なものにならないので「愛の欠損」は続くことに気づく→

本当に私が愛されたかったのは、この私からだったのだ!→

自分の中に2人の自分がいて、おさえつけられた方の自分が立ち上がってくる→

自分と自分が仲良くする感覚を味わい始めている→

今ココ。

ゆうたら、こういうことなのかな。

自由でのびのびできる国に生まれた王女さまが、看守によって暗い檻の中に閉じ込められていた。檻の中で、王女さまは死んだように生きていた。その看守が王女さまを閉じ込めたのは、実は王女さまが傷つかないように守ろうとしていたからだった。でもそれで王女さまはその檻の中で窒息しそうになっていた。その王女さまの「ここから出たい」という声は看守には届かず、圧倒的な力が看守の方にあった。それが数十年続き・・・その国の支配者は看守になっていた。看守は何かあるとすぐに攻撃や防御をしなければならなかったので常に戦闘態勢だった。だからいつも緊張していたし、何事か問題でも起きようものならすぐに反応した。ほっと安心できる状態ではなかった。そんな看守をゆさぶりにかけるような出来事が次々と起こり、いつも疲弊していた。王女様はどうしていいかわからず、看守の支配下であり続けた。あるとき看守が揺さぶられる大きな出来事が起きた。檻に少しずつ亀裂がうまれ、檻がぐらぐらとなり始めてきた。それでも檻は頑丈だった。そんなあるとき、王女さまは暗い檻の中で声を聴いた。「立ち上がりなさい、起き上がりなさい」。この声はどこからくるのだろう。誰が言っているのだろう。わからない。だけど、王女さまは、その声によって、立てないと思っていた自分の足が本当は立つ力があることに気がついた。そうすると、支配し監視しされ続けていた看守に、おびえなくてもいいと思い始めた。本当におびえるように生きていたのは看守の方だったと気づいた。王女さまは檻からでるときがきた、とわかった。看守の手をとった。檻はもうなかった。今度は、王女さまが看守をなぐさめる番だった。王女さまは再び、自由の国ですがすがしく生きることができるようになっていた。

今、私の中で、王女さまと看守が仲良くというか、穏やかに共存している。これは奇跡のような出来事です。