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【要約】アメリカ教育史の中の女性たち

アメリカ教育史の中の女性たち
 ジェンダー、高等教育、フェミニズム
坂本 辰朗 (2002年)

要約


第1章 ボストンラテンスクール共学化論争

1877年、アメリカ・ボストンの教育委員会にある請願が届く。曰く、「ボストンラテンスクールに女子が入学するのを認めよ。」

ボストンラテンスクール(以下、BLS)は、ハーバード大学へ最も多くの入学者を輩出している名門男子校で、当時既に250年の歴史と伝統を持っていた。そのため、「BLSを共学化すべきかどうか」はたちまち地元の教育関係者、新聞、一般市民を含めた大論争になった。

共学賛成派の意見にはいくつかの種類があったが、主要なものは「男女の公平性へのクレーム(要求)」を軸とした主張であった。すなわち、男性にだけ優れた教育の機会が開かれているのは不正義だという、男女平等や機会均等の観点から共学化を要求するわけである。
さらに、この不公正を解消する上で経済性や行政的現実性を考慮すると、BLSの共学化以外に妥当な実行案はない――女子校の改善や新設では本質的解決にならない――というロジックを、共学派は取ったである。

もう一方の反対派についても様々な意見があったが、有力な意見は「BLS共学化は何より女性のためにならない。その代わりに別の方法で女性教育の充実化をするべきだ」と要約できる。
共学化が女性のためにならない、というのは当時話題となっていたエドワード・クラークの『教育における性』(1873年)という本で提唱された、「高度で厳格な教育は女子の身体に悪影響を与える」という説が影響していた。

共学反対派の最強の論者は、ボストン教育長のフィルブリックだった。彼はクラークの学説を基に、男女のセックスの性差(身体的性差)はジェンダーの性差(社会的・文化的性差)を要求する――つまり男性と女性では必要な教育が異なる、という主張を「科学的根拠」として訴えた(77)。

「科学的」な主張として市民の支持を集めつつあった共学反対派に対して、賛成派はというと一枚岩ですらなかった。
彼らの中には、「女子にも同等の教育機会が用意されるならば共学化は必須ではない」とする意見もあった。この、別学での女性教育の充実化というのは反対派も提案していた点であり、そのため結局ここが教育委員会の結論となった。つまり、「BLSは共学化せず、現存する女子校にラテンスクール併設する」ということで論争は決着した。これは、BLSの門を女性にも開けるというのを目標としていた人々にとっては、敗北と言える。

より良い女性教育のためにBLSの共学化を訴えた人々が、本来持っていた問題意識は何だったか。それは、「女性にとって最良の教育とは何か、そしてそれをどう実現するか」だったはずである(これは現代的に読み解けば「女性にとっても男性にとっても最良な教育とは何か」と言える)。
しかし、フィルブリックらの「科学的」言説(=男性的言説)による逆風を前にして、最後までその問題意識にこだわることができなかった。そして代わりに、男女の格差や法的不正義、制度的欠陥――実はこれらは男性的言説である――に着地してしまったことが敗因と言える。


共学賛成派の敗北は、あるジレンマによって予め決まっていたのかもしれない。それは、「よい教育とは何か」を説得力を持って正面から語ることの難しさから、男性的言説を選んでしまい、それゆえ男性的言説の積み上げに居座る男女別学のロジックを崩すことはそもそも困難であった、というジレンマである(79)。



第2章 ハーバード女性試験の成立と終焉

1870年代初頭、女性のためのより良い教育を目指す組織として「女性教育協会」がボストンで結成された。彼女たちはハーバード大学の門戸を女性にも開くように、当時の学長であるチャールズ・エリオットに願い出た。しかし、エリオットは女性の入学を頑なに拒み続けた。

エリオットと女性教育協会の話し合いの中で、女性の入学が無理ならと次善の案(または妥協案)として、ハーバード女性試験なるものが構想され、開始されることとなった。
ハーバード女性試験というのは、ハーバードが作る試験を女性が受け、合格したらハーバードが合格証を出す、という制度である。ただし、受験生は試験の前も後もハーバードの教育や教授を受けることはない。さらに、当のハーバード大学が担当する役割は問題作成と採点のみで、その他の業務は全て女性教育協会が行うものだった。費用も協会がすべて負担した。

エリオット学長はこのプロジェクトを了承するが、「試験の主催者はボストン女性教育協会である」ということを常に明示するように指示した。これはつまり、ハーバード大学当局はこの件について積極性がないことを強調したということ。

1874年、第一回のハーバード女性試験が行われ、7人の女性が受験した。その後は一旦順調に増加し、1878年に受験者は51名となるが、これをピークにその後は減少を続け、ついに1884年、当初の形式でのハーバード女性試験は終焉してしまう。


この試験には当初から批判もあった。すなわち、ハーバード女性試験は、高い難易度にもかかわらず、その準備となる教授や指導もなく(つまり受験者の自学に完全に頼っており)、その上 合格しても何もメリットがない、という批判である。
女性試験の方式は幾度かの改定の末、ハーバード入学試験と同じ内容となっていった。つまり、同じ試験に合格しても、男性はハーバードの教育機会が与えられるのに、女性には紙切れが与えられるだけ――という点に批判があるのはもっともだった。

ハーバード女性試験の根本的な問題点は、「女性たちが求めたのは高等教育の機会であり、試験はそのようにしてあたえられた教育の結果の評価であるはずなのに、教育の機会を保障することなしに試験のための自学自習が可能であるとして、教育の機会を剥奪する論理のすりかえ」にあったと言える(114)。残念ながら「ハーバード女性試験は、どのように理屈をつけようと、実際にはきわめて粗雑な代用品に過ぎなかった。」(147)


ハーバード女性試験は、女性たちの望んだものを与えてはくれなかった。その意味で、女性教育協会の試みは失敗だったと言えるかもしれない。しかし、実はハーバード女性試験は1884年以後もその形式や目的を変えて継続され、やがてその後継となる試験は、ラドクリフ・カレッジ(ハーバードの女性部とされる最高峰の女性教育機関)の入学試験として発展していったという歴史的意義は軽視できない。



第3章 名門女子校が大学に昇格しようとしたとき、何が障害となったのか?

19世紀中盤、マウント・ホリヨーク・セミナリー(神学校)は女性の高等教育機関の筆頭だった。その影響力は大きく、アメリカの他の地域へ、さらに世界へと姉妹校を広げていった。そして、ホリヨークの関係者たちには女性高等教育の草分けとしての矜持があった。
当時 女性教育の興隆により多くの女性カレッジの設立が続く中、しかしながら、名門マウント・ホリヨーク・セミナリーのカレッジ化は遅れた。それはなぜだったのか。

一つ目の理由は、ホリヨークがそれまで培ってきた、そして誇ってきたホリヨーク「らしさ」ゆえの壁だった。ホリヨークらしさ、言い換えると そのエートス(精神、価値観)というのは、敬虔なキリスト教の宗教性、学生同士や学生と教職員の間の緊密な人間関係、そして学業だけでなく生活面にも及ぶ厳格な規律の重視、などであった。
これらのエートスは、それまでホリヨークの高度な教育と優秀さを支えていたものであったが、当時の教育の潮流――教育の脱宗教化や、規律よりも自制を重視する教育の流れなど――とそぐわなくなっていった。そのため、ホリヨークはカレッジ化にあたり、それまで守ってきたエートスの変容というハードルを越えなければいけなかった。


二つ目の障害は、当時の大学教育で起こったカリキュラム改革の波であった。ホリヨークは、カレッジ化にあたり当時の男性カレッジのオーソドックスを手本にカリキュラムを用意した。すなわち、①ラテン語やギリシア語などの古典科目の増設、②選択科目の設置(ただし少数の)であった。
しかし、大学全般で起こっていたカリキュラム改革のスピードは速かった。ホリヨークがいざカレッジ化の申請をするときには、古典科目は削減の方向へ、そして選択科目のより大幅な拡充がトレンドとなっていた。そのためホリヨークはさらなる調整が必要となったのである。


女性教育の「改革」を行う時、そのモデルとされるのは――つまり目指すべき理想とされるのは――男性のために行われている教育となってしまう。この際、それまで持っていた女性教育「らしさ」が失われることも往々にしてある。これらの事象は、常に男性教育が女性教育よりも先を行っているという前提を意味する。
この前提の中で女性教育は、いくら改革を続けても、それは常に男性教育の時代遅れバージョンになってしまうというパラドックスを抱えている。

 


第4章 女性大学卒業生協会の苦難

1907年、女性大学卒業生協会(以下、卒業生協会)の結成25周年を祝う会にて、19世紀における女性教育の目覚しい発展や、「女性の大卒第一世代」の成功が宣言された。実際、女性たちは根強い偏見――女性には高等教育は不要どころか害悪であるという偏見――を跳ねのけて努力し、その成果が社会に認められ始めていた。

しかし、ただ順風が続くだけではなかった。大卒女性の全体数は増えているのに、卒業生協会の会員数は増えなくなっていた。協会は、後続の女性たちのためにも 今までの女性教育発展の勢いを失ってはならない、という危機感を持っていた。そして1912年、卒業生協会は会員数増加に向けて具体的な行動を始める。

卒業生協会が取り組んだのは「加盟大学」の増加だった。協会の会員になるためには、協会が認定した加盟大学を卒業した女性であることが条件だったのだが、その加盟大学が少なすぎたことがボトルネックになっていると、協会は考えたのである。(1911年時点で加盟大学は24校だった。)

加盟大学の候補を増やす目的で、卒業生協会は大学の認定基準を見直すことにした。認定には二つの観点が設定された。①十分な学術的レベルを有している学校か、②女性に適した、女性に配慮がある学校か、この二つを満たすことを条件としたのである。
協会は、①に関しては外部の基準を活用することにした。当時のアメリカでは、様々な組織が大学の分類や認定、ランク付けを行うという動きが始まっていた。卒業生協会は、その中から連邦教育局が準備している大学リストを学術的な基準として採用することにした。
もう一つの観点、②の女性を十分にケアしているかという点については、卒業生協会が自ら各大学を審査することとした。


しかし、加盟大学を増やす作業は難航した。理由の一つは、①の連邦教育局の大学リストにまつわる問題があった。作成中のリストが外部に漏れて「炎上事件」が発生したことも影響してリストの準備が遅れたことや、そもそもリストの信ぴょう性自体にも疑問が向けられていたのが問題となっていた。

卒業生協会を悩ませたもう一つの理由は、実は認定基準①と②は「食い合わせ」が悪かったということである。単純化すると、①の基準を満たす学術的レベルの高い大学は、まさにその点にリソースを集中しているからこそ高い水準を保っているのであり、そのような大学は得てして②の女性への配慮にリソースを回さない傾向があったのである(その逆も然り)。


大学の質を、学術だけでなく多様な尺度で評価する現代の視点からすると、協会が設定した②の女性へのケアという観点こそが、当時としては先駆的であったと言える。また、連邦教育局のリストは問題だらけだった。

しかし、ではなぜ卒業生協会は学術レベルの審査基準を外部に頼り続けたのだろうか。「それは、「女性の高等教育は今や男性のそれに匹敵する」という認知、“真正な”大学教育としての女性高等教育ということを証明するためには(中略)女性の高等教育が全米的なリストの中で評価される必要があった」からである(241)。


女性大学卒業生協会の苦難が示唆するのは、当時の女性は「男性が用意した土俵」で、自身が男性と同等以上に優秀であると「常に」証明し続けなくてはいけなかった――なぜなら女性教育は常に逆風にさらされていたから、ということではないだろうか。

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