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BARしずく

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柚子

柚子

玄関から外に出ると雲ひとつない青空が広がっている。そよ、とかすかに風が吹いて髪を揺らす。お札持った?ニットキャップをかぶりながら私が聞くと、母は茶色の手提げ袋を持ち上げる。父があっち、と方向を指して歩き出す。私と母でそのあとをついて歩く。神社は緩く長い坂を下ったところにある。今日あったかいね。うん、風もない。元旦は晴れがいいよね。空を見上げながら母と話す。通りの脇にある家々の庭先を眺める。深い緑色

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探偵

探偵

白いチョークを持ち、黒板に今夜のメニューを書いていく。ぷっくりと身厚の秋茄子が手に入ったので、バルサミコ酢を効かせて焼き浸しにしてみた。赤ワインと相性がいいかもしれない。うずら卵の燻製、ベーコンとパプリカのケークサレ、ゴルゴンゾーラのブラウニー。次々と書きながら、私はふう、とため息をつく。燻製器やオーブンを使った料理が充実しているのは、暇な時間があったからだ。昨日の夜は二人しかお客さんが入らなかっ

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三日月

三日月

まだ雨、止まないみたいですね。向かいに座る男性客が、肩越しに振り返って窓の外を見る。仕立てのいい白いシャツの袖口には、上品な銀色のカフスがつけられている。今夜はどうでしょうね。私は拭き終わったビアグラスを棚に戻しながら答える。ラフロイグのロック、それと、塩レーズンとミックスナッツを。オーダーを受けて、私は大きなジップロックから白い小皿にナッツを移し入れる。アーモンドやピスタチオがカラカラ、と乾いた

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たい焼き

たい焼き

キッチンの照明だけつけて、洗い物をする。ようやくグラスが全部終わって、食器類に取りかかった。ざあざあと水を流して、泡のついた器や平皿をゆすいでいく。水切り籠に食器を伏せながら、ふとカウンターの隅に視線が行く。お祝いの品の数々、薔薇をあしらった花束やリボンのかかった焼き菓子の包み、ホールケーキの入った化粧箱。それらを眺めながら、まだ全然実感が湧かない、と思う。今夜、私は店を開けた。来てくれたお客さん

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オニキス

オニキス

白いマグカップに淹れたコーヒーに口をつけて、彼女はうん、と頷く。この前より美味しい。私はほっとして、よかった、と微笑む。仕事明けの彼女は少し疲れた顔をしている。肩まで下ろした髪の隙間から見える真っ白な耳たぶには、華奢なオニキスのピアスが揺れている。忙しかった?私が聞くと、閉店間際にちょっとね、でもケーキは全部はけた。彼女はそう答えながら、マグカップを両手で包むようにする。試食会に来た友人たちが賑や

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涙骨

涙骨

ビアサーバーの洗浄の練習を終えて、余ったビールをグラスに注ぎ、一口飲む。まろやかな味わいだ。きりっと辛いビールは苦手で、自分の好きな銘柄を選んだ。冷やしたトマトに乾燥バジルを振って、バルサミコ酢を垂らしたものを口に運ぶ。オリーブオイルのほうがいいだろうか、と思う。ひとによるかもしれない。オーブンからはキッシュの焼ける匂いが漂ってくる。具材はシンプルに、ほうれん草とベーコン、それからエリンギ。冷蔵庫

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石

花を買って、店に行く。扉の前でキーケースを開き、ひとつだけ見慣れない鍵をじっと見下ろす。ぴかぴかと真新しく、まだ見知らぬ顔をしている。鍵を挿し込んでかちゃりと回し、中に入る。塗りたての壁の匂い。荷物をカウンターに置き、窓を大きく開ける。昨日拭いたはずの窓には、かすかに雨粒の跡がついている。確か夜中すぎに、雨が降っていたから。ベレー帽とストールを外してカウンターに置く。キッチンスペースに入り、冷蔵庫

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クラッカー

クラッカー

シンクを磨く手を止めて、いつのまにか出来上がった内装を見回す。できるだけシンプルにしたいんです。デザイナーとの打ち合わせで、私が出した要望はそれだけだった。壁の色はやわらかな白、カウンターと十脚だけの椅子はウォールナットで揃えた。天井から吊るしたいくつかの照明はぼんやりとしたオレンジ色だ。スピーカーからブッゲ・ヴェッセルトフトの前衛的なピアノが流れてくる。静かで、疑問符をかすかに含んだような旋律。

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