見出し画像

花を買って、店に行く。扉の前でキーケースを開き、ひとつだけ見慣れない鍵をじっと見下ろす。ぴかぴかと真新しく、まだ見知らぬ顔をしている。鍵を挿し込んでかちゃりと回し、中に入る。塗りたての壁の匂い。荷物をカウンターに置き、窓を大きく開ける。昨日拭いたはずの窓には、かすかに雨粒の跡がついている。確か夜中すぎに、雨が降っていたから。ベレー帽とストールを外してカウンターに置く。キッチンスペースに入り、冷蔵庫の脇に引っ掛けてある黒いエプロンを取ってつける。MacBookを開いて、ブッゲ・ヴェッセルトフトのアルバムを選んで流す。この先、彼のピアノを聴いたら開店前の日々を思い出すのかもしれない。グラスをひとつひとつ磨き、リキュールやウイスキーを棚に並べ、メニューを作り、試作品を何度も練習した、たったひとりの時間。花を生け忘れていることに気づき、花瓶に水を注いで、チョコレートコスモスを生けてカウンターの隅に置く。鼻先を近づけると、ほろ苦く甘い香り。椅子を引いてすとんと座り、カウンターに置いた白い石を手のひらに乗せる。部屋の北西に置いてください、幸せになれる石です。白装束のようなワンピースを着た、オブジェ作家の女性にそういわれた。私は石を両手でそっと受け取った。夏に、近所のカフェでミルクティーを飲みながら、私は店主と恋の話をしていた。カウンターの端に座っていた彼女は、その話をずっと聴いていたのだ。いいわね、楽しそう。彼女はそういって笑った。幸せ…私は呟く。結局あの恋も、どこか遠くへ消えてしまった。ふっつりと。スピーカーからマイ・フーリッシュ・ハートが流れてくる。甘くやわらかな旋律に身を委ねる。私は未だに、愚かな心を抱えたままだ。自分が幸せかどうかさえも、わからないのだ。ふと時計を確かめると、もうすぐビアサーバーが届く時間だ。石を置いて私は立ち上がる。キッチンに立ち、設置スペースをもう一度布巾で拭く。ビアグラスを幾つか晒で磨いて並べる。業者の男性とは、先週一度打ち合わせをした。ぱりっとした白いシャツに、鮮やかな水色のネクタイをしていた。はきはきとした声で、時折きれいな笑顔を見せた。素敵だったな。私は思い出してちょっと笑う。いつの間にか流れてくる曲は、ムーン・リバーに変わっている。

#小説
#短編小説
#連作短編
#創作
#BAR
#バー
#BARしずく002

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?