見出し画像

三日月

まだ雨、止まないみたいですね。向かいに座る男性客が、肩越しに振り返って窓の外を見る。仕立てのいい白いシャツの袖口には、上品な銀色のカフスがつけられている。今夜はどうでしょうね。私は拭き終わったビアグラスを棚に戻しながら答える。ラフロイグのロック、それと、塩レーズンとミックスナッツを。オーダーを受けて、私は大きなジップロックから白い小皿にナッツを移し入れる。アーモンドやピスタチオがカラカラ、と乾いた音を立てる。棚からウイスキーグラスを手に取る。ラフロイグの緑色の瓶はどっしりと重い。早い時間に女性の二人客が赤ワインを飲んでいき、入れ違いで彼が入って来た。初めての客だった。皺ひとつないダークスーツ姿で、近くのホテルの名前が入った白いビニール傘を手にしていた。一杯目のビールを飲みながら、彼は出張で何度かこの町に来ていると話した。不動産を扱っているらしかった。このレーズン、塩気がくっきりしてる。美味しいですね。彼が目を上げていう。ゲランドの塩なんです。私は答える。フランスの?そうです。へえ、彼は微笑んでグラスを傾ける。その姿はゆったりと優雅で、ビジネスマンというよりはクラシカルな音楽家のような佇まいだ。あれ、うまくできないな…彼は呟きながらピスタチオの殻を剥いている。その指先はきれいに爪が切りそろえられている。私はそっと視線を外して、ラフロイグの瓶を洋酒が並んだ棚に戻す。スマートフォンを取り出そうとしてエプロンのポケットに右手を入れると、指先に華奢な金属が触れる。胸にちくりと棘がささるような痛みを覚える。今日、ピアスを片方、失くしたんです。彼が殻を剥く手を止めて私を見る。電車の時間が迫っていて、小走りで横断歩道を渡ったんです。向かい風でマフラーが解けて、ばさっと巻き直したんですよね、多分その拍子に。彼は手にしていたグラスを置いて、大事なものだったんですか、と尋ねる。ええ、とても気に入っていたんです。銀色で、三日月のような形をしていて。私は答える。そうですか。彼は頷いて黙る。スピーカーからはザラ・マクファーレインが流れている。哀しみを舌に乗せて、そっと吐き出すような歌声。月並みかもしれないけれど、彼は口を開く。そのピアスは身代わりだったんじゃないかな。あなたを守るために落ちた。たとえばあなたに、何かを気づかせるために。私は彼の目を見て、こくりと頷く。身代わり…。思いを巡らせてみたけれど、わからなかった。もしかすると答えはずっと後から来るのかもしれない。忘れた頃にふいに。そう思えば、少し救われます。私は答える。…大事なものを失くすのは、辛いことですよね。彼はぼそりと呟いて、氷の溶けかかったグラスに口をつける。彼はここではないどこかを遠く見つめるような、透明な目をしている。私はいいかけた言葉をつぐみ、カウンター越しにピスタチオの殻が入った小皿を引き取る。うすはりのグラスに冷たい水を注ぎ、彼の前に置く。トランペットのソロが奔放な旋律で流れていく。時折強くなる雨音と混ざる。よかったら、そのピアスを見せてくれませんか。彼がいう。私はエプロンのポケットからピアスを出して、カウンターにそっと置く。銀色に輝く華奢なピアスは、片割れを失って少し心許なそうだ。彼が人差し指を伸ばして先端に軽く触れる。恥じらうように、ふる、と三日月は揺れる。お代わりをください。視線を落としたまま彼がいう。それと、この三日月にも何か一杯。私は息を呑み、小さな声でお礼をいう。通り一遍のお礼に聞こえなければいい、そう思いながら。では、同じものを。

#小説
#短編小説
#連作短編
#創作
#BAR
#バー
#BARしずく006

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?