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涙骨

ビアサーバーの洗浄の練習を終えて、余ったビールをグラスに注ぎ、一口飲む。まろやかな味わいだ。きりっと辛いビールは苦手で、自分の好きな銘柄を選んだ。冷やしたトマトに乾燥バジルを振って、バルサミコ酢を垂らしたものを口に運ぶ。オリーブオイルのほうがいいだろうか、と思う。ひとによるかもしれない。オーブンからはキッシュの焼ける匂いが漂ってくる。具材はシンプルに、ほうれん草とベーコン、それからエリンギ。冷蔵庫には黒糖を使ったキャロットラペが冷えている。先週、ビアサーバーが搬入された午後、業者の男性に取扱い方を習った。彼はひとつひとつの作業を丁寧に教えてくれた。ビールを注ぐときのきめ細かな泡の作り方、洗浄のときのヘッドの外し方やガス抜きの仕方。鮮やかなブルーのシャツを肘までまくった腕には、きれいな筋肉がついていた。銀色のがっしりした時計がよく映えた。一通り作業が終わったあと、カウンターに並んでビールを飲んだ。きんと冷えたビールで背の高いグラスが白く曇った。試作ですが、と私はオレガノと岩塩をきかせたクラッカーを出した。いただきます。彼はひとつつまんで、美味しいですね、これ。といった。よかった。私はにっこりした。お店の名前の由来、聞いてもいいですか?彼はさわやかな声で問いかけた。私は少し考えて、響きが好きなんです、と答えた。彼は、きれいですよね、といって、しずく、と何度か繰り返した。それとね、雫が落ちるときって、涙の形をしているから。私がそういうと、涙…と呟いて、彼は微笑んだ。それからふたりともしばらく黙った。スピーカーからは静かなジャズが流れていた。ホセ・ジェイムズの声が、まるく、やわらかく空間を包んでいった。ルイコツって知ってます?彼は私に尋ねた。涙の、骨?そう。長方形のね、薄い骨がここにあるそうなんです。そういって彼は自分の目と鼻の間に指先で触れた。私も同じように、その硬い部分に触れた。涙が結晶化して、骨になっていくところを想像した。透き通るような白で、時折虹色が混じって、きっと美しいだろうと思った。スマートフォンからメールの着信音がして、私はエプロンのポケットから出して確認する。もうすぐ着くよ、とある。今日は友人たちを呼んでの試食会なのだ。お待ちしてます。と返事をして、オーブンを覗き込む。キッシュはあと五分ほどで焼き上がりそうだ。棚から白い平皿とカトラリーを取って、カウンターに並べていく。まずはビールを出して、それからワインか、ハイボールか。最後にコーヒーの淹れ方もチェックしてもらわなくてはならない。飲食業の友人ばかりだから、きっと審査が厳しいだろう。あれ?ここじゃない?ここだよ。聞き慣れた賑やかな声が聞こえてくる。開け放した窓の向こうには、漆黒の夜空が見える。

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