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オニキス

白いマグカップに淹れたコーヒーに口をつけて、彼女はうん、と頷く。この前より美味しい。私はほっとして、よかった、と微笑む。仕事明けの彼女は少し疲れた顔をしている。肩まで下ろした髪の隙間から見える真っ白な耳たぶには、華奢なオニキスのピアスが揺れている。忙しかった?私が聞くと、閉店間際にちょっとね、でもケーキは全部はけた。彼女はそう答えながら、マグカップを両手で包むようにする。試食会に来た友人たちが賑やかに二次会へ繰り出していき、ちょうど入れ違いで彼女はやってきた。カフェにしては遅くまで営業している彼女の店は、夜遅くに賑わう。彼女はコーヒーをもう一口飲んで、合格です、とにっこりする。私は大げさにお辞儀をしてその言葉を受ける。先週、彼女にコーヒーの淹れ方を習った。それからここで何度も練習をしたのだ。マックブックを操作して、ベニー・シングスをかける。軽やかでポップな旋律に、カジュアルな甘い声が乗って流れてくる。店の中の灯りが一段明るくなるようだ。こういうの聴くんだ、彼女は目を上げる。たまにね。私はそういいながら、カッティングボードの上でキッシュをカットし、平皿に乗せる。透明な器にキャロットラペを盛り、パセリを散らす。カウンター越しに、はい、と彼女に差し出すと、晩ごはん!と彼女が嬉しそうにいう。最近仕事終わったら、お菓子しか食べてなかったからなぁ。だめだよ、ちゃんとしたごはん食べないと。私はグラスに注いだ冷たい水とフォークを渡しながらいう。彼女は小さくなって、はぁい、と返事をして、なかなかできなくて…と呟く。彼女の仕事の様子を普段から聞いているから、それ以上はいわなかった。自分だけのために時間を割くのは、意外と難しいことだ。いただきます。キッシュを口に運ぶ彼女の姿を確認して、私はシンクにたまったグラスを洗い始める。グラス用のスポンジでキュッキュッとこすっていくのは気持ちがいい。お店のオープンいつだっけ。土曜日。忙しくなるね。そうだといいけど。水切り籠に伏せたグラスをひとつひとつ晒で拭き、光に透かして曇りがないかを確認してから棚に戻していく。ちらりと彼女をみると、マグカップを手にぼんやりと壁にかけた絵をみつめている。私は何もいわず、残ったキッシュを三等分にカットしてひとつずつラップをかけ、キャロットラペを小ぶりの保存用容器に移す。冷蔵庫を開けてキッシュとラペをしまい、豆乳のパックを持ち上げて減り具合を確かめる。ケースに入った卵の残りを数える。こうやって、ここに来てくれたひとたちが、一日の終わりを何気なく過ごしてくれたらいいと思う。好きなだけ放っておかれたい、でも誰かのそばにいたい、ひとことふたこと、話せるだけでいい。今までずっと、いろんな店で私がそうしてもらってきたから。ごちそうさまー、彼女が声を上げる。キッシュ、エリンギが入るとコクが出るね。ラペもちょうどいい酸味だった。私はにっこりと頷く。空いた平皿と器を受け取りながら、何か飲む?と私は尋ねる。ビール!彼女はすっきりとした笑顔で答える。

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