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映画『哀れなるものたち』(2023)を観た。

「公費で受けられるHPVワクチンについてのお知らせ」

これは、郵便物を適当に管理しがちな私が、おもむろに書類を整理していたときに見つけた通知だ。
ここから連想するかのように思い出したのが映画『哀れなるものたち』だった。


「女の子なんだからタバコやめなよ。子どもとか産めなくなるかもしれないし…」と言ってきた、サークルの女の先輩。

バックパッカーをして、1人で世界を巡ってみたいと言ったら「男の子だったらできるけどねぇ。」と言ってきた、母親。

「君が頑張ったら、僕は君を"頑張ったね"と褒めてあげるよ。」と言ってきた、イケメン。

どれも私の人生の中で出会った人たち。
そして、どれも私に得体の知れない怒りを与えた言葉たち。
私はそんな彼、彼女らを殴ったり、言い返したりはしなかった。
だが、心のどこかで「あぁ、この人は悲しい感性をしている人なんだな……。」と哀れんで、許したつもりになっていた。


繁華街を歩くとき、私は時折ひどいことをする。

「お姉さん、めちゃくちゃタイプで声かけちゃいました。」「連絡先交換しません?」
ノイズキャンセリング付きのイヤフォンで音楽を聴いている私に、律儀に声をかけてくる男たち。
こういうとき、1番親切な対応は、こちらは全く気がないということを早急に相手に分からせることだ。
1秒も無駄な時間を過ごさせないようにしてあげるのがベスト。

だけど、たまに私の中の好奇心が顔を出す。
その男性に、少しチラッと目を合わせて会釈する。
すると「もしかしたら……!」と相手は思うのか、私のすぐ横をついて歩いて離れない。
ノイズキャンセリングをしているので何を言っているのかはさっぱり分からないが、何かを言いながら、LINEのQRコードの画面を見せながら私にずっと着いてくる。
そんな中、私は目的地へと足を運ぶのだが、「さぁ、この人は一体どこまで私に着いて来るかなぁ?」と試すような真似をしてしまうのだ。

思わせぶりなことをするのは失礼だし、身の危険もあるので、頻繁にそんなことをしているわけでない。
だけど、ただの通りすがりの女の私に縋るかのように、長い距離をひたすら歩いてくっついてくる男性たちが、愚かで、哀れで、おかしくて仕方ない気持ちがあるのが事実だ。

繁華街を歩くとき、私は時折ひどいことをする。

「お姉さん、何してる人ですか?」「稼げてますか?」
このタイプの声かけは、いわゆるスカウト。
水商売などの仕事の紹介や、性サービス系のお店への斡旋をしている人。
そんな仕事をする気は毛頭ないが、そこで歩くスピードを遅めてみる。
すると、私のような女性なら何日間でいくら稼げるなどの話を早口で捲し立てるのだ。
少し話を聞いてみると、私は「出稼ぎ」というものをした場合、1日のお給料を最低「7万円」は保証してくれると言っていた。

考えてみますとかなんとか言って、その場を去り、帰宅したあと真っ先に、そういうお仕事の相場を調べてみた。
そのスカウトが提示してきた額は、美人ランクAクラス程度らしい。
Sクラスは芸能人級の女性で、1日に出勤するだけで8〜10万円のお給料を保証してもらえたりするそうだ。
で、私のそのAクラスというのは「クラスで1番かわいい子」級だそうだ。
笑ってしまった。やかましすぎるだろ。

こうして街を歩いているだけで、よくわからないジャッジに晒される。
そして、そんなジャッジをすることに必死な人たちを「愚かな人たちだ……。」と私は哀れむ。
しかし、深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのと同じように、他人の感性にいちいち自分の感想を述べている私を誰かが見て「滑稽な人だ。」と哀れむ人もいるのだろう。


身近に「可哀想」という言葉をよく使う人がいる。
毎度その言葉を聞くたびに、ギョッとする。
すっごい高いところからそれを見ているじゃない。
自他との境界線が曖昧になると、それもまた苦しいことではあるので、そうやって切り分けて考えられるのは憧れるが……
私が何かを手にしている立場であるとき、その偶然やありがたみを実感する。
だが、それ以外に何をすれば適切なのかわからない。
自ら、慈愛だと主張しながら手を差し伸べるとき、それは形骸化された救いで、ただその愚かさを、可愛さや可哀想さに変換して、哀れんでいる自分に満足してしまってはいないか?
それがどうしようもないのなら、自分が手にしていない何かを持つ人に出会ったとき、私は哀れんでもらうことしかできないのだろうか。


ラース・フォン・トリアーの映画『ニンフォマニアックvol.1-2』を少し前に見ていたので、あの作品のことも思い出しながら、私の好奇心の行き着く先は一体どこなんだろうと、ベラに自分を重ね合わせながら鑑賞した。

ヨルゴス・ランティモスの作品は、『籠の中の乙女』『聖なる鹿殺し』を観たことがあるのみで、特段詳しいわけではない。
ただ、3作品見た上で、監督の自由・意志・選択といったものに対するアプローチは、現実的なのにどこか寓話的で、そのバランスがおもしろいと思った。
監督によって描かれる、人間を動物としての見つめ直したときの、人間の愚かさ・崇高さが表裏一体となった皮肉的な表現を、今回の『哀れなるものたち』の幻想的なビジュアルと味わうことで至高の映像体験となった。

区から送られてきたお知らせを見たことが、劇場に足を運び、考えさせられるきっかけになったのだから、映画との出会いはどこにあるか分からないものだ。

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