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フランク・ロイドの自己紹介 Ⅱ

フランク・ロイドの自己紹介 Ⅰ

の続き

そんなこんなで、数ヶ月会えないなんて話になって、ガールフレンドも一人減り、二人減り・・・。

彼女らに私に合わせろなんて私は言えません。かまってもあげられない。彼女らには彼女らの人生がある。仕方ないことです。まあ、いろいろ有りましたが、ある者は渡米し、ある者は渡仏し、なんと私まで海外に行く羽目になりました。留学したり、職についたり、海外案件を担当したり。運命は皮肉で、常に自分の思惑の逆を行くような気がしました。縁がなかったと言えば縁がなかった。お互いに好きだ、だけでは思うように行かないものです。

そんなこんなで、工事現場を渡り歩き、某国立音楽大学の講堂工事(NC15なんて極めて厳しい騒音基準の案件)、某電気電子工場新築現場、某東芝本社ビルの地域冷暖房接続工事、某東芝の半導体工場などをこなしました。普通の高層ビルとか事務所ビル、マンションなんて担当していないのです。

最後の半導体工場も終わりに近づいたある日、現場所長が私を呼んで、

「フランク、スリランカって知っているか?」と聞きます。
「スリランカ?どこにある国でしょうか?」
「昔はセイロンと呼んでいたインド洋の島国だよ」
「ああ、セイロン、インドの下の?それなら知ってますよ」
「そこで、空港の新築工事があるのだよ。タダで飛行機に乗れるぞ」
「え?つまり、海外赴任しろということですか?」
「オマエさえ良ければな。なぁに、四年位行っていたら呼び戻してやるよ」
「『タダで飛行機』気に入りました。行きましょう」
「即答しちゃっていいのか?」
「日本にいるのも飽きてきました。行きますよ」

さて、ロイド君、自分の運命がガラリと変わってしまうことにも気づかず、即答してしまったんですよ。それで、赴任した1985年以降、今まで36年間、日本にいられたのは三年半のみ。おまけに国際結婚までしてしまうとは、当時の私には思いもよらないことでした。いいとか悪いとか関係なく、起きてしまったことは取り返せませんよね?やれやれ。

当時の私は、大事な人が渡米し、渡仏し、日本に居ても仕方なし、アメリカ、フランス、海の向こうに行ってしまったなら、自分だって海の向こうに行ってやるわな、と半分自暴自棄気味だったんでしょうね。

1985年から1989年までスリ・ランカに居ました。1989年に日本に戻り(その時には現地で結婚して娘も一人)、本社の設計部に配属。成田空港やら羽田空港の設計、埼京線の新宿新駅、浜松町の地下鉄駅なんて、普通のビルもやりたい!とか言っている内に、またも、設計部のシンガポール分室の所長をやれ、というお話が。またもや海外です。まあ、ヨメも娘もいるし、海外手当が良かったので、またまた引き受けてしまった。1992年です。

それで、またもや、チャンギ空港とか、シンガポールで初めての地域冷房とかシンガポール大学のバイオクリーンルームなんてのを担当。普通のビルって私は一生経験できないの?

シンガの設計室は、シンガ以西の諸国担当。マレーシア、インドネシア、スリ・ランカ、インド、パキスタン、ミャンマーと、シンガに居るのが半分、その他はそれら諸国をドサ回りで、現場調査しては設計、見積り。特に、パキスタンなどの危険国は、「危ない国は、慣れているロイドに行かせろ!」なんて、ひどいよねえ?

そして、2000年にシンガの地域冷房プラントが完成に近づいた頃、またまた、日本の設計部に戻れと。それで、娘のインターナショナルスクールの月謝を調べたんですわ。なんと、年間三百万円!海外手当無しでとても払えません。ということで、辞めます、と辞表を提出。慰留されて社長も「それならシンガに居てもよろしい!」と言われましたが、一旦出したものを引っ込めるのはイヤ!辞めました。

ということで、あれ?次の職決め手ないや、というので、日系大手設計事務所に殴り込んで「雇え!」と言うと、「おまえなんか雇ったら会社が潰れちまうよ。そうだ、同業他社を紹介してやるから、そこ行け!」と辞めた会社の倍以上大きな会社に再就職。今度は香港勤務です。

(Ⅲに続く)

フランク・ロイドの自己紹介 Ⅲ

フランク・ロイドのエッセイ集


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