小林理事長

スポーツに関わるなら頂点のオリンピック・パラリンピックを目指したい。

近畿医療専門学校 理事長 小林 英健


―――「スポーツ×医療」というテーマでお話をお伺いしたいのですが、まず最初に、理事長が整骨院の仕事を志すようになったきっかけを教えてください。

 大学の時に専攻していた心理学の授業で〝幸福論〟を学んだんです。簡単に言うと〝人は好きなことをしている時が幸せ、だから君たちも好きなことを探しなさい〟、つまり生きがいを持ちなさいということだったんです。その話を聞いたときに、好きなことを仕事にしたらずっと幸せでいられる。「生きがいと思える仕事に就きたい」と思ったんです。当時(約35年前)は〝企業戦士〟という言葉が使われていた頃で、会社に入ったら家庭よりも会社が大事、残業は当たり前…そういう環境の中で、普通の企業に入ったら、生きがい探しなんて絶対に出来ないと思いました。

 そうしたある日、夕方街を歩いていたら15時頃にシャッターが閉まる会社があったんです。銀行です。まだ明るいこんな時間に閉めるってことは17時か18時くらいに帰れるんじゃないか? これなら生きがい探しが出来る。そう思って入社したのが銀行だったんです。でも銀行に入ってビックリしたのが、シャッターが閉まってからが長い(笑)、毎日残業で。こんなことしてたら生きがい探しが出来ないと思い、すぐ辞めようとしたんです。そしたら父からかなり怒られまして(笑)、じゃあ次の仕事を見つけてから辞めようと思ったんです。

 4月に入社して、2ヶ月ほどすると営業で外回りをするようになったんです。銀行なので、中小企業の社長さんや、上場企業の支店の方、商店街の方々など、ありとあらゆる会社や職種の方々とお会いすることが出来ました。私にとっては、銀行の鞄を持っての就職活動でしたね(笑)。そうして、沢山の方々とお会いしている中で、高校卒で富山県から大阪に出てきて、柔整と鍼灸の国家資格を取って、整骨院をされている先生に出会ったんです。お話をお聞きしているうちにその仕事内容にとても興味を持ちました。しかもその先生は、整骨院の仕事で3階建てのビルを建てておられたんです。高卒でも技術一本でビルが建てられるんだとびっくりしました。当然、知識は全くありませんでしたし、そういう仕事は医療系だろうから文系の私には難しいだろうと思っていました。でもどうしてもやってみたくなったので、先生に聞いてみたんです。そしたら「この資格は専門学校で取れるので学校を紹介しましょうか?」と言ってくれたので、即答で「是非お願いします」ということで紹介して頂いたんです。

 その出会いの後、銀行で翌年の3月まで働き、転職しました。そこから先生のところで働かせて頂きながら、紹介して頂いた専門学校に2年間通うことになるんですけど、その間、転職への不安や、結婚もしたことで生活へのプレッシャーもあったりと、波瀾万丈で少し情緒不安定になってしまったときもありました。でも、今振り返ってみると、あの時「生きがいとなる職に就きたい」という想いを諦めず実現させたことは本当によかったと思います。この仕事が自分にとって天職だと30年間ずっと思ってやってこられましたからね。こんなに素晴らしい仕事ないなと、今でもずっと思っています。

 そして、2年間学校に通い国家資格を取って、その年に開業しました。最初は技術がなかったので、とにかく患者さんに親切に接することを心掛けていました。とにかく一生懸命マッサージをさせて頂くことで、口コミで徐々にお客さんも増えていきました。そんなある日、重度のギックリ腰になられた方が来られたんです。今までどおりに電気をかけてマッサージをしたんですけど、夜中に電話がかかってきて「先生のところで診てもらって帰ってから痛みが増してトイレに行けなくなりました。寝返り出来なくなりました…」と言われまして。そういうことが2回くらい続いたんです。あきらかにうちに来て悪くなってしまったんですよ。

 それでかなり自信を無くしてしまいました。人間の身体には自然治癒力がありましたから、ある程度はこれまでの方法でも治るんですけど、そうではなく、もっと即効性のある治療がないかなと思い、整骨院をやっている友人みんなに恥を忍んで聞きました。そしたら友人が教えてくれたんです。「うちの先生の腕が凄くて、プロ野球選手などもわざわざ関東から大阪まで通っている」と。そこで、その先生に弟子入りすることになったんです。入門して何をするかというと弟子代わりに働くんです。もちろん自分の整骨院もありましたので、3年間毎週土日に通っていました。戦国時代から伝わる活法という技術をとにかく必死で覚えました。技術が身に付くと、ギックリ腰の治療が得意になったんです。どんなに担がれて来られても、這って来られても、帰るときには歩いて帰れる、ということが出来るようになりました。そうすると患者さんも更に増えてきました。地元の患者さんの他にも、口コミを聞いて関東や九州から通ってくれる患者さんが来てくれるようにもなり、順調に店舗展開をしていきました。そして近畿医療専門学校を開校したんです。 

自分たちの技術で東京オリンピック・パラリンピックを支えようと思っている。 

―――近畿医療専門学校は様々なアスリートの方々をサポートされておられますが、スポーツと関わるようになったのはどういったきっかけでしたか?

 ひと昔前は、私がそうだったように「開業したい」という理由で入学される生徒さんが殆どだったんですが、今は「スポーツトレーナーを目指したい」という人が多くなりました。

 例えば、2年程前に卒業した生徒の中で、プロ野球でピッチャーをやっていたという経歴の生徒がいました。彼は高校までは誰からも凄いと言われるような選手だったのですが、プロに入った途端にレベルの差を痛感して。それでも彼は必死に練習していたんですけど、それが原因ともなって肩を痛め、プロを断念したんです。その時彼が思ったのは「あの時に身体のコンディションを整えてくれたり、トレーニング法をもっと教えてくれたりする人がいたら、自分は肩を壊してなかったかもしれない、治療してくれる人が近くにいたらもっと選手生命は長かったかもしれない。自分がトレーナーになって、自分みたいな野球選手を出さないようにしたい。そういう理由で、うちの学校に入りました。

 彼のようにプロまでいけなくても、高校や大学でスポーツやっていた人は、就職の時にスポーツに関わる仕事がしたいと思っていることが多いんですね。もちろん一番の理想はプロのアスリート。アスリートとしてプロやオリンピックを目指せたら一番良いわけですよ。でもそこで、自分の才能がもう一歩足りなかったり、故障してしまったりしてアスリートとしては断念する。だけどスポーツに関わる仕事をしたい。特に自分がやっていたスポーツに関わりたいという生徒が結構多いですね。

 また、スポーツをやっていた生徒は、学生時代に、整骨院の先生にお世話になっていることが多いのも理由のひとつかもしれません。病院は診察やレントゲンなど役割分担でこなしているけど、整骨院の先生は「人」を診てくれているので患者との関わりが深いんですよ。故障して試合に出られなかった時に整骨院の先生に励まされた記憶が強く残っていて、自分もそういう立場になりたい、整骨院をやりたい、スポーツトレーナーになりたい、そう考える人が増えてきたんだと思います。 

 そのような状況下で生徒達のニーズに応えるためには、やはり、私自身や近畿医療専門学校がもっと多くのアスリートをサポートしてないと説得力がないと思ったんです。もともと近畿医療専門学校は即効性のある治療をおこなっていましたので、技術面では実績がありましたが、それにプラスして、3年程前からご縁のあるアスリートの方々の治療に力を入れるようになりました。

 最初は、大相撲の豊ノ島とご縁があり、その友達の琴奨菊も紹介して頂き、2人を診させて頂いてました。そしたら「先生すみません、相撲界は僕ら2人だけにしておいて欲しいんです」と言われまして。彼らも治療を受けてみて、今までのトレーナーさんと全然違う治療法で、これは凄い! と実感して頂いたようで、これは他の相手に塩は送れないと思ったんでしょうね(笑)。それで、相撲界を2人だけにしてもらう代わりに、彼らのご縁で他種目のスポーツ選手を紹介してもらうことになりました。そういう口コミでどんどん広まっていって、今はプロ野球選手や、様々な種目のアスリートの方々を診させてもらっています。

 あとは、やはりオリンピック・パラリンピックです。自分たちの技術で東京オリンピック・パラリンピックを支えようと思っているんです。そのためにまず、リオに行きたいと思ったんですよ。いきなり東京オリンピックに行っても何をすればいいのかわからない、まずはリオに行ってトレーナーとして何が出来るか見てこようと思ったんです。なので、リオの1年くらい前から「誰か私をリオに連れて行って」と周囲に話をしていたら、ある方のご縁で日本ボクシング連盟の会長にお会いすることが出来たんです。お会いしたとき会長は「20年間足の痺れが痛くて真っすぐ座っていられない」とおっしゃっていたので、「私に治療させて貰えませんか? 3回治療させてもらって改善しなければ、すみませんでしたと頭下げます」ということでお願いしました。それで、次の日もその次の日も治療に通って頂きました。すると、若干の痛みは残っているけど本当に楽になったということで、私の技術を信用して頂いたんです。そこから何度かお会いしているある日、「ボクシングの日本代表が2名オリンピックへ行けることになったが、本当にリオに行きたいのか?」と聞かれ、即答で行きたいです! とご返事したら、「じゃあ、選手村に入れるように手配しておく」とおっしゃって頂けました。

 それでリオに行かせて貰って、成松と森坂という2人の選手を治療させて頂くことになりました。朝は練習を見学し、昼からは治療する。現地に入ってからも毎日1人1時間半くらいかけて2人を治療し続けて、かなりへとへとになりました。その経験から、これは選手1人につきトレーナーが1人要る状況を作らないとダメだと思いましたね。選手村には入れなくても、村外トレーナーというカタチで、外で治療する方法も絶対必要だと思いました。そんなことも勉強になりましたね。

 そういう意味では、整骨院の先生をしておられる方、これからスポーツトレーナーを志す人、みんなにスポーツトレーナーとしてオリンピックを目指すチャンスがあると思っているんです。選手村には入れないかもしれないけど、東京オリンピック・パラリンピックの際は都内のどこかに選手に来てもらって治療することは絶対出来ると思ったんです。

 それがきっかけで、自分の技術をもっと広めようと思い、整骨院の先生たちを集めて勉強会もしています。「みんなで東京オリンピック・パラリンピックへ行こう!」と。

 元々は近畿医療専門学校へ入ってくる生徒のために、自分がもっとスポーツに関わらないといけない、という考えからスタートして、そして今は、「スポーツに関わるなら頂点のオリンピックを目指す!」。本質のところでは、オリンピック・パラリンピックに行きたいわけではなくて、自分たちの技術を証明したいし、自分たちがやっていることを世の中の人たちに知ってほしいんですよ。 

スポーツは人に勇気とか感動を与えることが出来る。選手が頑張っていることが自分も頑張っていることのように思えたり。だから優勝してくれたときは、自分のことのように嬉しい。

 ―――平昌パラリンピックでは成田緑夢選手をサポートされておられましたが、是非エピソードをお聞かせください。

 緑夢君とは3年前に出会いました。その時彼は私にこう話してくれました。「僕がスポーツすることによって、人に感動・夢・希望を与えたいんです。だから僕はスポーツを頑張ろうと思ってる」。その想いを知って、何とかしてあげたいと思ったんです。

 4年前に彼はスキーで冬季オリンピックを目指していたんです。でも練習中の事故で膝を大怪我してしまいました。保存療法でなんとか切断は回避できたものの、足が背屈出来ない腓骨神経麻痺になってしまいました。彼はもうどん底ですよね。世界大会で入賞して今度はオリンピックへ行けるかもしれないというところまで来ていたんですから。その後、何もやる気がしないという時期に、気晴らしで健常者が参加するウェイクボードの大会に出場したみたいで、そしたら優勝したんですよ。すると「頑張っている緑夢君の姿を見て、僕ら障害者は凄く勇気をもらいました」というメールやお手紙をたくさん頂いたらしく、「障害者の自分でも頑張ったら人に夢や希望を与えることが出来るんだ!」と思ったそうです。自分の目的は「人に夢・勇気・感動を与えること」だということをそこで強く想ったんでしょうね。

 緑夢君と出会った当初は、コスト面でのサポートではなく、トレーナーとしてのサポートからスタートしました。やはり歩き方が悪くバランスが崩れてしまっていたんです。あと、寝返りが出来なく、いつも同じ方向を向いてしか寝れないということを話していたので、治療をしました。そうしたら「先生、昨日寝返りが出来ました! こんなの初めてですよ!」と言ってくれて、本当に私たちを信用してくれるようになったんです。そしてある時、彼にこれから何を目指すのか?と訊ねると、「僕、リオのパラリンピック目指します。自分でどの種目が合っているのかをこれから見つけます」と。それで彼が見つけたのが高跳びだったんです。高跳びでリオのパラリンピックを目指しはじめました。標準記録も突破して良いところまでいったんですけど、そのときは結果、代表には選ばれませんでした。

 そこで一旦リオは諦めて、今度は平昌パラリンピックに行きたいと言って。スノーボードを選択し、一生懸命やり出したんです。そこから彼は様々な大会に出場し、アジア大会、世界大会などの大きな大会でもどんどん良い成績を残していきました。そして私も様々なカタチでサポートするようになりました。彼にはその他にも色々なスポンサーがいましたが、「僕と小林理事長の考え方は同じ、だからこそ小林理事長に一番サポートしてもらいたい」と言ってくれていました。あるとき彼から「先生、僕、目が悪くてコンタクトを入れていたんですけど、ゴーグルとの隙間から雪が入ってしまうのでコンタクトは駄目なんです。3メートル先の雪質がしっかりと見えたら、もっと早く身体をコントロール出来る……、そのためにレーシック手術をしたいんですけど費用面でサポートしてもらえませんか?」とお願いされました。もちろん快く引き受けました。レーシック手術が無事終わったあとの彼は、劇的に成績が上がりました。元々身体のバランスが良い選手なので、見えるようなることで絶対勝てる自信があったみたいです。

 そして彼は見事、平昌パラリンピックに出場したんです。一種目目の競技は2本目に転倒して銅メダルだったんですが、2種目目で金メダルを取ることができました。彼がメダルを取ったときは、近畿医専の職員みんなでこの部屋(理事長室)に大きなテレビを置いて応援してたんです。そしたら緑夢君がメダルを取った時に女性職員がみんなボロボロ泣くんですよ。もう緑夢ファンなんですよね。そういう姿を見ていると、スポーツって本当に人に勇気とか感動を与えることが出来るんだなと思いました。選手が頑張っていることが自分も頑張っていることのように思えたりとか、応援することによって、選手が活躍することによって、選手みたいに自分はスポーツは出来ないけど、一緒にやっているかのような一体感になれる。で、応援している人が優勝してくれたら、自分のことのように嬉しいんですよね。  彼は最初、「障害を持っている人たちに勇気とか感動、希望を与える」と言ってたんですけど、障害を持っていない人にでも、自分が頑張ることによって夢・勇気・希望・感動を与えることが出来るとわかったから、今も彼は頑張っているんだと思います。「人はみんな落ち込んだり、悩んだり、挫折することもある。そんな人たちにも、僕が頑張る姿を見てもらって、夢・勇気・希望・感動を与えることが出来たら嬉しい」ということも言ってました。そして、彼はこう宣言しました。「スノーボードは引退します」と。「僕が目指しているのは、スノーボードでメダルを取ることではなく、僕が頑張ることによって、人に夢・勇気・希望・感動を与えること。それが僕の目的なので、スノーボードは引退します。だから次は東京パラリンピックではなく、東京オリンピックを目指します!」 

私たちが「技術」を発信していくことで、国民のみなさんがそれを求めてくれるようになったらいいなと思っています。

―――最後に、近畿医療専門学校の今後のビジョンをお聞きかせください。

 私たちがここ3~4年やっているスポーツトレーナー活動をもっと広めていきたいと思っています。整骨院というのは、怪我の予防や手当が出来たりします。それともう一つ、私たちが得意なのは選手のパフォーマンスを上げるということ。骨格矯正によってパフォーマンスを上げることが出来ます。そこをひっくるめて〝スポーツ活法〟という治療法として、整骨院の先生たちにセミナーで教えているんですよ。

 今はどこの学校も国家試験に受かるための勉強をしているので教科書が一緒なんです。しかし、教科書で勉強しても技術は手に入りません。私たちの業界に必要なのは、専門的知識だけじゃなくて「技術」なんです。その技術を近畿医療専門学校から発信していき、みんながスポーツ活法を学びたいなと思ってくれるようにしていきたい。

 簡単な怪我だったら整骨院に行けば治るということが常識になれば、国民医療費も下がるし早く治る。複雑骨折なんかはすぐに病院へ行くべきですけど、でも捻挫して少し腫れていたりという場合は整骨院に来たほうが早く治るんです。でも、多くの整骨院は、保険のきくマッサージ屋さんみたいに思われていて、実際、電気あててマッサージするくらいのところが多いんです。だから私たちの「技術」を近畿医専から発信することで、どこの学校を卒業した人でもスポーツ活法を学んで、私たちと同じ手当が出来るとしたら、一番喜ぶのは国民です。ちょっとした痛みや怪我でも、今は整形外科や病院に行くことをみなさん想像されていますが、本当は余計治りが遅いんですよ。薬や注射やレントゲンなどは出来る限り使わないほうが良いんです。腰が痛いというだけですぐレントゲン撮ったりする、それは国民医療費を上げているだけなので。私たちが「技術」を発信していくことで、国民のみなさんがそれを求めてくれるようになったらいいなと思っています。

近畿医療専門学校 理事長 小林 英健 1958年生まれ。大学卒業後に銀行員から柔道整復師に転身し、後に整骨院を開業。「小林式背骨・骨盤矯正法」を開発。2008年に近畿医療専門学校を設立し、学校法人近畿医療学園理事長に就任。2016年リオオリンピック公式トレーナーとして帯同。著書に『スポーツトレーナーになる!』『スポーツトレーナー 絶対になりたい人が読む本 アスリートの心と体を支える“感動”の職業』など。



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