作品例:実験小説『07.03.15.00』より抜粋
この作品に関しては、詩人の野村喜和夫さんがつけてくれた、以下のコメントが本当に分かってくれたというか、的を得ていると思います。深謝!
全体的に、いくつかの持続するエピソードもありますが、フラグメンタルな文章が散りばめられて進んでいきます。
まさに、詩でも小説でもないものを書きたかったのでしょう。
ただ友達に(ジャンル外のものを)「誰が読むんだ」と言われたとおり、読者のことを考えれば、かなり無謀な試みではあったと認めざるをえません・・・。
しかし、「なんだかよくわからん読みもの」だけど、実験としても面白い、美しい、ところはあったと思っています。(手前味噌ですが・・・汗)
そのうち電子版で出そうかなと思いつつ。野村さんのコメントは以下。
・・・・・・・・・・・・・・以下、抜粋・・・・・・・・・・・・
エピグラフ
(人間の呟いた言葉の原子が石になり、結晶化するほどの永い時間のあと
「始まりはどこにもない、ただ発端だけがある」
フランツ・カフカ(一八八三-一九二四)
# 私たちは本当はいかようにでも暮らせたはずだ
夏休みが好きだ。それが永遠を感じさせるからだ。開け放たれた窓、たえず動いていく風、伸びていく植物。屋外で過ごす人々の、独特の手ぶらで甘ったるい、声の響き。
それらは事後を思わせる。なんの事後かといわれれば分からないが。人称の事後だろうか。わたしがいなくなり、わたしとあなたがいなくなった後の、その先の、その前の空気も時折鼻先をかすめていき、ひとつのたえず震える水面の音楽になるような。
# 杏と西子
遠くの電線が、空の光の反照を浴びて、蜘蛛の糸のように溶けかかっている。夕日は、紅鮭ピンク、薔薇桃色、カメオピンクと移ろいながら、じわじわ色相を変えていた。チャリで走っていると、スカートがはためいてまとわりつく。どうも、夕日に向かって走っているのは、劇的すぎて妙な気分だ。その光はお母さんのバラ色の胸のようでもあり、見知らぬ惑星からのまったく不可解な口説き文句のようでもある。やがて川沿いの道に出る。少し行くと公園があって、やぐらやブランコ、滑り台が一通りあり、川がゆったりとカーブして小さな入り江のようになっている。
トモオが、いた。そこに。また見間違えだろうと用心してかかったが、今度は本当に本物だった。トモオはベンチで新聞を読んでいた。ホームレス?さぼりの会社員?ともかくも、わたしは、考える先にそっちに向かってしまっていた。自転車を木陰にとめて、小枝をパリパリ踏んで、気付くとトモオの横に座っていた。
「あ、中西さん」
トモオは新聞をくしゃっと折り畳んで、膝の上にのせた。
「やあ。何やってるの、それ」
「不審者ごっこ」
「へえ?」
「ていうのは嘘だけど」
「もう暗いよ、それ読めるの?」
「読めなくなったら、帰るよ」
「ねえ、どうしてよく黒板消してるの?」
受け答えしながら、トモオは目をそらしたままだった。あまり目を合わせて喋らない人だったかもしれない。
「りんしょく、だからかもしれない」
「りんしょく?」
「けちってこと」
「そうなの?」
「ひとつ、何か、やったことになるから。何もしなかったわけじゃない、でしょ。放心してただけじゃなく」
「放心、してるねよく」
「放心、するの好きだから」
「じゃあいいんじゃないの」
やはり目をそらしたまま、斜め下の地面を見ながらトモオは答えた・
「準備しておかなくちゃいけないと思って」
「何に?」
「いろいろ。分かんないけど、きっとこの先いろいろあると思うんだ。今は、それに備えて何か準備しておかないと」
黒板を消すのと、将来へ備えることとの繋がりがよくわからなかったが、曖昧にうなづいておいた。
「わたしと反対だね、わたしはもうこの先なにも起こらない気がずっとする」
「ふーん」
「このへんの景色って、無限に続いていく気がしない?あの駅前の感じとかさ、コンビニと、チェーン店と、煙草屋と、自販機と、選挙ポスターと、つくりつけの町っていうか、つくりつけの景色っていうのか。たぶん郊外の幾千もの町と何も変わりない景色、あそこの環状道路も、いつも工事のランプが点っててさ、日が暮れると侘しくてさ」
池の向こうのきわに、工事現場を知らせる、ピカピカ光る三角ポールが水面に映りこんでいた。
「空想の中でだけ、世界は美しい」
「は?」
「らしいよ」
「どこかで読んだの?」
「美しい、とか、醜い、とかは脳の中にしかないんだって」
相変わらず、突拍子もないことをいう。
「でも、このへんの景色にも美しい、と思えることはあるのかな」
「たぶん。妄想の中でね」
確かに、太陽がいつもビルの陰に沈んでいき、その時窓がいっせいに氷柱みたいにひかひかになるところや、強風に電線がうなり、巨大なプロレスリングみたいにぶんぶんするところは、密かに綺麗と思っていた。
「ねえ、やばいこと言ってもよい?」
どんどん暮れてきていた。対岸の空は濃紺で、端の方には墨色インクが流れ込みはじめていた。
「この世は単なる休憩時間に過ぎないんじゃないかって、思うことがある。何にもないから、こうして死ぬまで退屈な時間は過ぎていって、というのもわたしたちは戦士だから。前世は何かの使命を帯びて戦う戦士だった。来世も、その続きで壮絶なバトルに参加する。だから、今はこの束の間の休息を楽しもうと…あ、もちろん妄想だけどね。こういう考えがひとりでに湧きあがってくるから、いつか本気で信じ込んじゃうんじゃないかと思って。それが、けっこう怖い」
正面の空と土地の境目あたりに顔を向けて、まっすぐ背筋を伸ばしていたトモオは「キモいね」と言った。「あ、いや中西さんじゃなくて」と、慌てて付け加え、こちらをふりかえってはじめてチラッと視線をあわせた。
「でも、それって正反対でもない。今が待機の時間ってことでは共通してるんじゃないかな。何かを待っている、何もない時間の拡がり。それが、大人になるまでか、一生続くかっていう見込みの違いだけで」
「そこ、大きい」
「そうかな」
「うん」
「もしかして、転校が多かったから、こう考えるのかも、自分。もう二年後には引っ越すことが確実だったりすると、それが締め切りになって、今ここにいるうちに何かをやっておかなければならない、そう思う。考え方の癖がついていると思う」
「ええ、そうなんだ…」
そうか、それではこの書き割りのような街にわたしを残したまま、トモオはどこかに行ってしまうのだろうか
# そう呟いたのが、とかげであっても
「横にいて、黙っていて」
いつかは死ぬ、死んでいくんだというどうしようもなさと、世界とは嘘の塊であり、それをどうすることも出来ないから、ただ放って自分は生きていくというどうしようもなさと、同じだろうか? 違うだろうか? 詩はそれらの疑問を包む月光のようなものでしかないか?
「横にいて、黙っていて」
そう呟いたのが、とかげであっても。そうあってほしい。とかげは、へこへこ呼吸していた。
さみしい。部屋にはさぼてん君がいるのに、人もいるのに、なんだろうこのゼリーの中みたいな淋しさ。二人の世界は共有されちゃいけなかったんじゃないか。
# 「救いの可能性は無数にある」
夜になると明かりがぽつぽつ見えてきます。もうすぐ販売されなくなるという、白熱灯の暖色も。窓にカーテンがかかっている家では、布地の色に光が透けています。そこに夫婦が住んでいるのを思い浮かべてしまう。女性はショートカットに眼鏡で、落ち着いた色のシンプルなワンピースを着ている。男性の方も眼鏡で、こちらはティーシャツにジーンズか短パン。恐竜の模型が幾つかデスクに載っていて、台所と、寝室の枕元にスタンドがある。そうした場所があることがなぜか救いのように感じられる。それは単に自分が彼らになりかわることが出来ないからかもしれない。星は見えているけど、実は気が遠くなるほど空間的に離れていて、それは人間個体の有限な力ではたどりつけないことを意味する。つまり、個体の死が個体に見えているわけだ。想定される若夫婦も、やっぱり、ここで見ている存在にとっては見えながら届かないから、死であり救済なのだろう。
天国というのはそういう状態ではないのか。
「救いはない」「救いの可能性は無数にある」フランツ・カフカ
# 幾千ものプランクトンの歌のように
散開星団としての記憶、宇宙空間に撒かれた宇宙飛行士のおしっこみたいに。記憶が雨のように降ってくる。破裂した風船か何かのように、さまざまな記憶の破片がどっときゅぴきゅぴと散っていく、無重力で漂っている。
幾千ものプランクトンの歌のようにきらきら金色に輝く波、その上はスカイブルーだ。手をのばせばどこまでも突き抜けていきそうで、そのくせ書き割りみたいで、ホログラムを幾重にも重ねたような。日が暮れると空はすみれ色になる。ここでも何かが歌っている、象だろうか、ジュゴンだろうか。つぶやいて、とろける、砂浜。
(覚えている、いつまでも)
そこに立っていた者たちと、わたしはまったく動物の声で話した、尾を持った言葉で・・・。
夢はあっという間に身体感覚を部品化する。その時感じている概念と身体感覚の中間みたいなものを具体化して、こんな形と繰り広げてみせる。眠るに入る直前は、点滅信号のように色々な形と色が踊りを踊っている。やがて暗く透明な世界が幾千ものすだれのように通りすぎていき、時折おとずれる雨の何日かをくりかえし、寒天質で出来た、遅い遅い回転スピードのオルゴールのように、竪琴の弦のすだれのように、何千枚にも及ぶ。
それから何かが始まる気がするが、口を開いて空を見ていると、縄文人が鹿の角と皮を打ちつけて踊っていたよ。
# あなたは決して私を知らない。
私は、あの人に話しかけなかった。かつて一度も。
でも、本当にそんなことが大切なんだろうか。私が、あの人の姿を見た。それだけで対話はもう成立しているんじゃないだろうか。それはスクリーンやテレビ画面やパソコンモニタを媒介してだけれど。ある目が、視覚像と音声を捉えた。それによって、わたしの内分泌の組成が一瞬だけでも変わった。体温が微かにあがって、脈拍が少し早くなったかもしれない。足の裏に汗をかいたかもしれない。それだけで交流は、対話はもう成立しているんじゃないだろうか。そこら中の粒子や分子がそうやって相互作用しているなら、もうそれで、それ以上何か望む必要があるだろうか。見渡すかぎりの野原が一面にそよぐように、すべて過ぎていく。
私は別にあなたの賛成がほしいわけではない。あなたは今私が言ったことを、まるごと拒否してもいい。それは人称の世界での出来事なんだ。いま言ってるのは、もっと違うところ。あなたも私もないところ。あなたと私の相互作用、いや相互浸透を、人称の世界の言葉がどう裁けるだろうか。
(ナンカ キモオタ ミタイデスネ・・・ アイドルヲナガメテウットリシテイマスヨ・・・)
液晶ごしに君の顔を撫でている。指の下でとよんと撓む肌をなぞっていると、それが本当に君の皮膚であるみたく感じられてくる。なめらかで、潤っていて、光の粒子をたくさん含んでいる、肌理。「こんなに近くにあるのに、もう会えない」、と「ディスプレイの中でも会えるから、嬉しい」というのが交替交替に湧いてくる感情という奴。
そこで何を見たの?そこで何を見たかって?スクリーン上に、何倍にも拡大されたきみの顔。突然変異して巨大化してしまったように。それが喋る。大きな口で、目で、まばたきするやブンと風が巻き起こる。僕はそれを蠅の小ささから見ている。それから今度はスクリーンがいくつにも分割される。何十個ものスクリーンになり、何百個ものスクリーンになり、何百対もの目と口できみは話を続ける。愛するものが巨大であり、また多数でもあるという恍惚・・・。
画面の向こうに、あなたはいた。私の知っているあなた、その気配を、雰囲気を、仕草を、どうやってはにかみ笑いするか、感情が高ぶったとき、どう言葉を詰まらせるか、私のよく知っているあなた。今日も私は、光る画面の向こうにあなたを見ています。けれどあなたは決して私を知らない。でも、それでもいいのだという気が、今日はしています。
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